念のため、特に政治的に公正な物語というわけでもなかった。
社会をえがくにあたって、痴漢や女子会にまつわるよくあるイメージをそのまま映像化しており、そこにふくまれるバックラッシュもそのまま提示しているという批判はできる。
たとえば痴漢冤罪は日常の断片として示され、そこで被害を訴える女性を気が強くアニメにおいて必ずしも好まれにくいキャラクター描写にしたり、その後に主人公の実松が両手をあげて満員電車に乗っていても女学生ににらまれたり、といった描写がある*1。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00173/v12110/
しかし断片的な描写なので、たとえ実松が意図的な犯人でなかったとして*2、痴漢被害が存在することを否定はしていない。警察も今回は名前を記録しただけ。その後の女学生ににらまれる描写も、実松の日常においてははるかに意図的な疎外が描かれていて、比較的に不快感はちいさい。現在のインターネットでは、むしろ痴漢被害が訴えられることへ反発する方向で騒動が起きそうな気すらした。
女子会にしても、主人公の六つ子たちを女性化して、男性声優のままテンプレートのような描写をする。そのまま現実の女子会を描いたというより、相対化しているという読みとりができそうに思った。
それぞれ物語の表面においては、よくあるテンプレートをなぞった描写だったことはたしか。ひねりが足りないので面白味に欠けるし、相対化などの文脈を読むための物語としてのとっかかりが足りない。批判できるとしたらそれくらいだろうか。
そもそも、ツイッターをのぞいていた時に噂を見かけたのだが、正面から批判している意見を見かけず、批判があるという伝聞しか見つからなかった。
とりあえず具体例として、「微妙なレベル」と評価しつつ、各話のポイントをまとめた柴田英里氏の記事を引く。ただこれも直接の批判とは少し違う。
人の心は規制できない。日本のポリティカル・コレクトネス意識に足りない想像力 - messy|メッシー
テレビアニメ『おそ松さん』のポリティカル・コレクトネス問題は、13話以前から度々ささやかれていました。9話の「恋する十四松」で暗示されたAV出演→自殺未遂→故郷に帰るという女性の物語は「AVはスティグマなのか? AVに出た女性は後ろ暗い思いを抱えねばならないのか?」という問いにつながります。10話の「イヤミチビ太のレンタル彼女」における、男性から女性へ向けられる欲望をお金に換算して法外な金額をだまし取るという描写は、「人間いろいろだよね」とか「男女問わず嫌なヤツはいるよね」と片付けることも出来ますが、ミソジニー描写と受け取ることもできます。13話の「実松さん」の痴漢えん罪描写や、「じょし松さん」の「女の敵は女よね」という台詞なども、ミソジニーとして受け取ることも出来ます。いずれも、ミソジニーか否か、と問われれば微妙なレベルですが、ポリティカル・コレクトネス的に安心とは言いがたい、見る人によっては不愉快になる描写ではあります。
ただし「描写」が不愉快になりうるとして、それぞれの物語は以降もつづいていき、その文脈において不愉快さは軽減されていくだろう。
第9話はAV出演が暗示された女性を、いつもとちがって六つ子が真面目に応援する物語。そのプライバシーを知った者も安易に明かしたりしないし、蔑視したりはしない。文脈においては、AVがスティグマ視される社会を描いた上で、それに主人公たちがあらがう物語だったといえる*3。
第10話は、イヤミとチビ太が薬をつかって美女や美少女になり、六つ子から金を騙しとるという話*4。これは第13話の女子会より、ぐっと物語としてわかりやすく相対化できていた。どちらかといえば、最初に薬をつかわず女装しただけのイヤミとチビ太が、六つ子にブスと罵倒される場面にルッキズムの危うさを感じた。
くりかえし念のため、『おそ松さん』が政治的な公正さにおいて慎重かどうかと問われれば、さほどでもない気はする。今後、もっとはっきり批判されるような描写がされてもおかしくない。
ただ、現代社会に残る蔑視を内面化しつつ、ギャグや人情で部分否定していく作風なので、はっきりバックラッシュに向かうような作品ほどの危なさは感じない。
実際、今までのところ問題視されてとりさげられたエピソードは、パロディなどの政治的な公正さとは異なる問題ばかり。