人口爆発して人類が太陽系全体に進出した時代、利用するために火星の極冠の氷を溶かす計画が成功した。しかし氷の下から謎の地上絵があらわれ、異星人の痕跡だと推測される。
同時に、エネルギー源として木星を太陽化する計画も進んでいた。自然愛好宗教のジュピター教団の一部過激派が、それを阻止しようと宇宙で反対運動をおこなうが、主人公に制圧される。
そして小惑星帯から太陽に近づく彗星の減少を調査しに行った宇宙船が消滅する。その原因がブラックホールによるものと判明し、やがて太陽に衝突することがわかったのだが……
日本SF界が総力をあげた、1984年の日本映画。総監督と脚本の小松左京が製作として出資もおこない、メカニックデザインはスタジオぬえ、特技監督は当時新人の川北紘一がつとめた。
しかし本格的なSF作家が多数参加した、完全オリジナルストーリーの大作SF映画として同時代に期待をあつめながら、完成作品が落胆をまねいたことで有名。
実際に現代から見ても時代遅れな感は否めない。メインタイトルの字体などに『スター・ウォーズ』の影響が感じられるが、そちらはすでに旧三部作の完結編が前年に公開されていた。同様の特撮技術をつかって薄汚れるほど宇宙生活が一般的になったSFホラー『エイリアン』も5年前に公開されている。
日本でも同年のアニメ映画で宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』、押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、さらにスタジオぬえ関係者が中核でかかわった『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』が公開され、SF映画の水準が絵も話もはねあがっていた。子供向け作品でも、真空の宇宙では音がしないことを描写に組みこんだ『大長編ドラえもん のび太の小宇宙戦争』の漫画が連載開始し、翌年にアニメ映画版が公開されている。
とはいえ、公開から40年以上たって視聴すると、不評な特撮に古典的な味わいが感じられた。技術がハリウッドから十年以上遅れていても、数十年たてば誤差に思えてくる。そもそも同年に米国で公開された『2010年』の出来を思えば、SF映画史に残るような傑作にはまったくとどかなくとも、SF映画の平均とは大差なかったのかもしれない。
スタジオぬえのデザインした宇宙船は、特に斬新なわけでもないが、だからこそ良くも悪くも古びてはいない。モーションコントロールカメラをつかった合成もそこそこ成功しているので、日本の特撮では使われる機会が少なかった技術だからこそ個性と魅力がある。木星の巨大存在ジュピターゴーストは雲に隠れて全体像が見えないから雰囲気がある。宇宙空間の爆発全般も、おそらくカメラを横に倒して撮影して、無重量状態らしく破片が下に落ちない映像にしている。
ただし等身大のセットは、日本映画としては大規模かつSF的なデザインでしあげているが、あまり宇宙SFらしさがない。特に結末の小惑星が典型的だが、重力のある場面がどれも地球と変わらない。『スター・ウォーズ』や『エイリアン』と大差はないが、物語に求められるリアリティの水準が異なる。たとえば小惑星は宇宙服で歩かず何らかの機械をつかって移動するべきだった。
ジュピター教団過激派とビームを撃ちあう銃撃戦も、同時代のSFアニメと比べると格段に落ちる。同じ東宝特撮映画の1991年の『ゴジラVSキングギドラ』よりは巨大セットを活用して見ごたえがあるし、実写作品ならば同時代の洋画SFでも大差ない気はするものの。
とにかく問題は映像よりも物語だ。無駄な枝葉が多く、しかもその描写がやたら長い。
まずナスカの地上絵のような遺跡に異星人の痕跡を見いだすオカルトぶりが古臭いのはしかたないとして、そもそも異星人の存在が本筋と関係なさすぎる。異星人の残した記号がブラックホールの存在を暗示していることは、人類がブラックホールの脅威を知った後に解析されるので予言の意味がない。異星人の巨大宇宙船らしいジュピターゴーストも劇中では正体不明のままで、最後に消えゆく木星に情感を足す以上の意味がない。ジュピターゴーストのミニチュアを作る予算で、まったく描写がない未来都市のミニチュアセットでも作ってほしかった。
ハリウッド映画を真似したような軽口も全体的にすべっているくせに長くてしつこい。特に序盤で主人公と友人が再会してこづきあう場面が長すぎてテンポが悪く、『ゼイリブ』の路地裏プロレスを思い出してしまった。さすがにあれほど長くはないが……
悪い意味で語り草の無重力セックスも、SFのアイデアとして描写したくなることは理解したいし、SFに興味のない観客に乳首まで見せるサービスを提供したかったと思えなくもないが、いくらなんでも長すぎる。しかも途中から宇宙空間を浮遊するイメージシーンになって無重力の意味がなくなってしまう。木星太陽化計画の責任者たる主人公とジュピター教団の過激派との許されざる恋を短い時間で印象づけたいにしても、他の描写が選べたのではないか。SFとしても、わざわざ回転重力を止める描写が不自然だ。現実の有人宇宙飛行を考慮して、そもそも人工重力をつくっていない場所に寝室をつくるべきだろう。
ジュピター教団の多数派が平和につどう描写も、資料映像のような自然風景と、ただの浜辺の海水浴が長々と映される。日本映画にしては多様な人種のエキストラを集めてがんばっているし、1カットだけ後景にマット画合成らしき建造物が映るが、特に未来的な情景ではない。『ジョーズ』じみたサメの襲撃も、いかにも作りものくさいサメを大写ししてしまう。そこでサメと戦う時にサメも他の生物を食べて生きのびているという指摘がなく、ジュピター教団が愛する自然も人間が選んでいるという視点に広がらない。科学技術による危機からの救済だけではなく、文化をつかって恐怖を緩和したいという教祖の目的を描いたのは技術SFに欠けがちな視点があって良いのだが、そこで歌われるのが古臭い歌謡曲な感じもつらい。もう少しヒッピー文化を反映したり、あるいは『モスラ』のように珍しい言語を引用したりして、もう少し時代をこえられる歌をつくれなかったものか。
同じ2時間10分ほどの映画にまとめるなら、異星人の存在はばっさり削除するべきだろう。そして小惑星帯の異変調査から小型ブラックホールとの遭遇事故、同時並行で木星太陽化計画の進行から別計画への転用にしぼって、災害と対策のディザスター映画に徹底すれば、もっとシンプルで見ごたえのあるSFになったと思う。
それで余った尺をつかえば、ブラックホールの到来による外惑星植民地の人類文明の被害なども映像化できるだろう。またジュピター教団過激派との戦闘は有っても無くても良いが、やはり優先順位は低めだと思う。