放映直後に制作が予告されながら、つい先日にようやく十数年ごしに公開できた劇場版を受けて、「ますたあ陽太郎4s@kaolu4s」氏*1が問題提起をしていた。
デスティニープランを論外なものと受け止めてもらえなかったことはデス種という作品の不幸だったのだが、これ、就職氷河期真っ只中に就活前後の年齢層向けの作品で展開されたから、という間の悪さがあったと思うのよね。
— ますたあ陽太郎4s (@kaolu4s) 2024年2月8日
デスティニープランを論外なものと受け止めてもらえなかったことはデス種という作品の不幸だったのだが、これ、就職氷河期真っ只中に就活前後の年齢層向けの作品で展開されたから、という間の悪さがあったと思うのよね。
これを受けて、なぜ計画が視聴者に支持されたのかという問題として「北守さん@hokusyu1982」氏*2らもツイートしていた。
デスティニープラン、当時は映画『ガタカ』の世界観とほぼ一緒だなあと思った記憶がある。これはディストピアですよというSF的な常識のもとで作り手は設定したはずなのに、オタクはむしろそれを支持してしまったというところに、今思えば現代オタクの反人権の兆候があったのかなあと感じている。 https://t.co/AA84Ref9zl
— 北守さん (@hokusyu1982) 2024年2月8日
デスティニープラン、当時は映画『ガタカ』の世界観とほぼ一緒だなあと思った記憶がある。これはディストピアですよというSF的な常識のもとで作り手は設定したはずなのに、オタクはむしろそれを支持してしまったというところに、今思えば現代オタクの反人権の兆候があったのかなあと感じている。
そのSF的常識に寄りかかりすぎたのかなと。もっとちゃんと植松聖みたいなやつを出せばさすがにあれほど「議長そんなに悪いか……?」の声が溢れることもなかったはず。
— ますたあ陽太郎4s (@kaolu4s) 2024年2月8日
そのSF的常識に寄りかかりすぎたのかなと。もっとちゃんと植松聖みたいなやつを出せばさすがにあれほど「議長そんなに悪いか……?」の声が溢れることもなかったはず。
同時代に視聴していた記憶をほりおこすと、ほとんど前触れなく終盤に全容が明かされたデスティニープラン*3は、それまで新主人公シン・アスカの指導者に見せかけたデュランダルというキャラクターを倒すべき悪役と明確化するため、古典的な悪役記号をとってつけた印象があった。
それゆえ表層的な記号描写にとどまって深いドラマにしていないと感じたし、それでもプランを正面から正当化しようとする意見がそこそこのボリュームをもったのはたしかに予想外だった。
念のため、たとえ主人公から詭弁と喝破されても、ハッタリのきいた悪役の言葉が読者や視聴者には説得力をもって受けとられる問題はまれによくある。漫画『賭博黙示録カイジ』の序盤で利根川というキャラクターがおこなった演説のように。
その意味ではプランが視聴者のすべてに否定されなかったことも例外的な受容ではない。
ただ後になって、プランが支持された特有の理由もいくつか考えた。そのひとつが「藍沢@i_zawa」氏の指摘するコーディネーターという設定だ。
ああーしかしそもそもコーディネーターとかいう存在自体が倫理的に大丈夫なのか?!って思いますが…
— 藍沢 (@i_zawa) 2024年2月8日
ああーしかしそもそもコーディネーターとかいう存在自体が倫理的に大丈夫なのか?!って思いますが…
それはそうなんですよね。あの技術がある世界なんで、重篤な遺伝子疾患の出生前診断&治療なんかはナチュラルでもやってんじゃないかなという気もしますし。
— ますたあ陽太郎4s (@kaolu4s) 2024年2月8日
それはそうなんですよね。あの技術がある世界なんで、重篤な遺伝子疾患の出生前診断&治療なんかはナチュラルでもやってんじゃないかなという気もしますし。
前作『機動戦士ガンダムSEED』*4では遺伝子操作で生まれたコーディネーターという人種が宇宙に住んでおり、そうではない人種ナチュラル*5と対立を深めていた。そのコーディネーターのなかでもスーパーな能力をもつ主人公キラ・ヤマトは戦いに巻きこまれながら生きのこった。
おそらく最終回まで見て熱心なファンでいつづけた視聴者は、『SEED』が遺伝子で人生を決めることを肯定する、そうでなくても否定はしない世界観の作品として理解して、その先入観のまま『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』*6を解釈していたのではないだろうか。
悪役の描写にしても、『SEED』の時点でコーディネーターを排除するナチュラルの思想集団ブルーコスモスは暴力的かつ醜悪に描かれていたし、『DESTINY』でも愚かに見せていた。一方、コーディネーターの統率者として登場したデュランダルは、醜悪さを終盤まで表面では見せなかった。
ひとりの視聴者としては、『SEED』の段階でコーディネーター技術は否定して終わるとばかり思っていた。それなのに最後の敵が、おそらく賞賛のかたちの皮肉でコーディネーターのキラ・ヤマトを評したところ、皮肉ではない素直な賞賛のように視聴者に受容された。そしてそのまま『DESTINY』がはじまった。新キャラクターのデュランダルもシン・アスカもコーディネーターとして自身の来歴の倫理問題に向きあうドラマはなかった*7。それゆえコーディネーター技術より相対的に穏健そうに見えるプランへの嫌悪が少なかったのではないだろうか。
コーディネーターの能力主義は『DESTINY』でも否定されなかった。キラ・ヤマトは途中で世捨て人のように登場しながらデュランダルと対決することになり、第三勢力のままシン・アスカもデュランダルも倒して最終回をむかえた。
プランを否定的に受容してもらうなら、否定しなかったコーディネーター技術よりも問題に感じさせなければならない。子供のころから成人時の選択肢を示すだけで拒否することも可能かもしれないプランを*8、意思を確認することなど不可能なまま不可逆的に受精卵の遺伝子をいじるコーディネーターより嫌悪させなければならない。
富裕層が遺伝子改造した子供を産んで階級を再生産しつつ人工的に人種をつくりだす技術という倫理的な問題を、設定レベルで抑制して視聴者につたえる方法はあっただろうか?
たとえば『SEED』がはじまった時点で原則としてコーディネーターはすでに「自然」に生まれてきていることに設定を明確化するのはどうだろう。コーディネーター技術は特定の遺伝子をいじって能力を底上げしただけの技術で、いわゆるデザイナーズチャイルドのように細かく制御することは実際にはできないとする。作品描写を見ても、コーディネーターの身体能力は意外と個人差があり、必ずしも美しいとされる容貌ばかりではない。ねらったように能力が開花して見えるのは、底上げされた身体能力と、コーディネーターをつくれるくらい豊かな環境で育てられたから。
つまり倫理的な問題は最初にコーディネーター技術をつかった一世代目の親にだけ課して、本編のコーディネーターも一種の被害者とする。そうすればコーディネーター社会でも遺伝子によって人生が決められることを忌避する考えが広めていけそうだし、プランを否定する結論をもっと説得的に描けたかもしれない。
ここまで考えて思い出したのが、TVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス 2』という近未来ディストピア警察SFだ。単独で視聴すると問題提起やロジックに面白いところがあるのに、人気をあつめた前作を前提に解釈すると素直にうけとれなくなる作品として似ている。
TVアニメの1作目『PSYCHO-PASS サイコパス』の時点で、そのディストピアを成立させている装置シビュラシステムの説得力はSF設定としては無きに等しく、実態の醜悪さは視覚的なギミックでインパクトを与えただけ。とうてい完璧にはほどとおいハリボテにすぎないことが1作目の最初から最後まで延々と描かれた。その世界がディストピアとしても不完全なことは視聴者は理解できていたはずだった。
ところが2作目ではシビュラシステムが建前としてもっていた完璧性をドラマとしても前提にして、その完璧性がどのように崩されるのか、崩れた完璧性をどのように回復するのかという謎解きを描いていった。その謎解きにSF的な面白味や説得力はあったのだが、そもそも1作目の時点で完璧性は表層にすぎないと喝破されていた。そのため2作目はハリボテを本物あつかいして右往左往する茶番に感じてしまうところがあり、独立した作品かリメイクとして見たかったと思ったものだ。
また、『DESTINY』にプランを否定したいだけの強い動機や言葉をもつキャラクターが用意されていなかったことも、視聴者の理解をさまたげた気がする。先述したように主人公が喝破しても無視されることはあるが、さすがに熱心な読者であれば主人公の描写があること自体は無視できないだろう。
もちろん『装甲騎兵ボトムズ』の主人公キリコ・キュービィーのように、強大な利益を提示された受益者があえて反抗するハードボイルドにも良さがある。しかしキラ・ヤマトは完全に個人の能力と人間関係で敵の本拠地まで侵攻できたのでプランの受益者ではないし、一矢報いたい弱者というわけでもない。
「佐藤葵@srpglove」氏*9がある種類の一貫性をキラ・ヤマトに見いだせると指摘している。弱小勢力からでも勝利者になれるキャラクターが戦いのある世界を望んでも、強者の余裕に見えてしまう。
デスティニーの結論は、それで戦争が根絶されて平和になるとしてもデスティニープランを否定する(「覚悟はある。僕は戦う」)だったので、続編で敵を皆ご〇しにするのも理にかなっているとは言える。
— 佐藤葵 (@srpglove) 2024年2月9日
デスティニーの結論は、それで戦争が根絶されて平和になるとしてもデスティニープランを否定する(「覚悟はある。僕は戦う」)だったので、続編で敵を皆ご〇しにするのも理にかなっているとは言える。
実際のキラ・ヤマトは『DESTINY』の中盤でシン・アスカと一対一で戦闘をおこない、しばらく行方不明になるくらいの敗北はしている。逆に考えると、『DESTINY』の最終決戦でも戦闘では敗北して後進のコーディネーターに能力で劣っていく立場になりながら、それでも不安定な自由をもとめるキラ・ヤマトを描けば、もう少し違う感動があったかもしれない。
いずれにしても、道に迷って教えてほしい人間か、逆に良い道を他人に決められたくない人間でないと、肯定であれ否定であれプランをめぐるドラマにからみづらい。その意味では迷いのないシン・アスカもプランを復讐を達成するまでは必要としていなかったし、かといって排除したい強い動機があるわけでもなかった。
ちなみに現在のインターネットの論調を見ていくと、プランは基本的に否定されるべきものとして受容されているように見える。
興味深いのがWikipediaに記述されているシリーズ構成による見解で、まさに当時の就職氷河期で求められていたことを風刺的に描いた意図だったらしい。これは皮肉が皮肉と理解してもらえなかったパターンだったのかもしれない。
デスティニープラン - Wikipedia
シリーズ構成を務めた両澤千晶は、製作時の世情を見て、「挫折や失敗もなく、効率よく最短ルートで生きる手段」を人々が求めるかのように向かっていると考え、それを実現してしまう存在としてデスティニープランを構想したと語っている[2]。
2.^ 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY オフィシャルファイル フェイズ02』講談社、2005年11月、44-45頁。(ISBN 978-4063671612)
編集者の個人的な意見がのりやすいピクシブ百科事典でもアニヲタWikiでも否定的な評価が強い。これはインターネットへ熱心に書きこむような視聴者層がいれかわった結果だろうか。
デスティニープラン (ですてぃにーぷらん)とは【ピクシブ百科事典】
デスティニープラン - アニヲタWiki(仮)
*1:はてなアカウントはid:K_NATSUBA。
*2:はてなアカウントはid:hokusyu。
*3:以下、プランと略す。
*4:以下、『SEED』。
*5:遺伝子操作のみを排除しているだけで、後天的に能力が強化された人間も勢力にいる。
*6:以下、『DESTINY』。
*7:コーディネーターとして生まれたことに悩んだキャラクターが、ナチュラルもふくめて世界規模で同じ苦しみを押しつける策略としてプランを考えたのであれば、それはそれでドラマになっただろう。しかし最後に明かされたデュランダルの真意は、それとはまったく異なる私的な感情だった。
*8:設定的には強制とされているが、その強さは作中でははっきり示されず、後述のWikipediaに引かれているように設定の作者は強制ではない余地も考えていたようだ。
*9:はてなアカウントはid:srpglove。なおここでツイートされている続編は劇場版のこと。