hokke-ookami.hatenablog.com
上記エントリで言及したWEBドラマの話題から派生するように、さまざまな実写作品に黒人俳優が起用されることにも論争が広がっている。
そのなかで高村氏が、中世ヨーロッパに黒人貴族が登場するドラマを拒絶する根拠として、よりによって『ジョジョの奇妙な冒険』の作者の発言を引いていた。
これに限らず、中世ヨーロッパが舞台なのに黒人の貴族が出るドラマなど、ポリコレのために歴史考証や世界観が滅茶苦茶になってる作品が頻発してるのがもうね。
— 高村武義 #WalkAway (@tk_takamura) 2022年9月2日
何がポリコレは表現の幅を広げる、だ。
寝言を言うな。 https://t.co/uBkTtDb4gn
これに限らず、中世ヨーロッパが舞台なのに黒人の貴族が出るドラマなど、ポリコレのために歴史考証や世界観が滅茶苦茶になってる作品が頻発してるのがもうね。
何がポリコレは表現の幅を広げる、だ。
寝言を言うな。
ジョジョの荒木飛呂彦先生も、世界観の重要性を著書で描いている。
— 高村武義 #WalkAway (@tk_takamura) 2022年9月4日
奴隷貿易の歴史を無視して、100万分の1、1000万分の1のレアケースでしかない黒人貴族を一般化したがってる阿呆はよく読むべし。 https://t.co/qZLuUzOMaR pic.twitter.com/Io5k1hbrtN
ジョジョの荒木飛呂彦先生も、世界観の重要性を著書で描いている。
奴隷貿易の歴史を無視して、100万分の1、1000万分の1のレアケースでしかない黒人貴族を一般化したがってる阿呆はよく読むべし。
しかし画像として引用されている文章は、ひたれる世界観の構築を目指しつづけるべきという考えであって、設定の一貫性をやぶったり読者の固定観念から外れる話とは関係ない。
もちろん「レアケース」の周辺に焦点をあてて創作することや、読者の属性に近い登場人物を登場させて共感しやすくすることなどは、いっさい否定していない。
はてなブックマーク等で指摘がされているように、むしろ荒木飛呂彦は外国が舞台でも日本語がつかわれているかのような描写をするし、いったん提示した設定を連載中に変えつづける漫画家として知られている。
[B! 表現・思想] 高村武義 #WalkAway on Twitter: "ジョジョの荒木飛呂彦先生も、世界観の重要性を著書で描いている。 奴隷貿易の歴史を無視して、100万分の1、1000万分の1のレアケースでしかない黒人貴族を一般化したがってる阿呆はよく読むべし。… https://t.co/eEult9AQ7h"
id:li1ipqb0ooi1n こいつ @tk_takamura はくせーっ! ゲロ以下のにおいがプンプンするぜぇーッ! 「戦闘潮流」ラストでアメリカ人のはずのジョジョが変わり身人形の顔に「へのへのもへじ」描いてたのは世界観的にどうなんすかねーっ!
代表的な例としては、わざわざ変化前後で立体化された犬のイギーや間田敏和や米国大統領などのキャラクターデザイン、殺人鬼アナスイや先住民サンドマンの性差や姓名の設定などがある。
作品の多くも特定の地域を舞台としながら超常現象のぶつかる無国籍アクションであり、またさまざまな外国作品をオマージュしているためか先住民も重要な役割りをはたしたりする。
ちなみに話題になっている黒人貴族が登場するドラマ『ブリジャートン家』にしても、同じく物語から排除されてきたユダヤ系として歓迎するコメントを原作者が出している。
『ブリジャートン家』、「有色人種が貴族」として描かれるのは変?キャストが反論 - フロントロウ -海外セレブ&海外カルチャー情報を発信
「私自身、ユダヤ系の人種なんですが、ある本を読んで登場人物たちの中に1人でもユダヤ系のキャラクターがいると『あ、私だ』と嬉しくなります。とてもパワフルなことですよね。だから、(多様性豊かな作品を作ることは)『みんなにとって必要なことなんだ』と推測できるようになりました」と、多くの現代人に共感してもらいたいからこそ、ドラマ版の配役には納得がいっていると米Peopleに語っている。
「ポリコレのために歴史考証や世界観が滅茶苦茶になってる」という高村氏の主張だが、考証よりも共感や面白味を優先する創作は珍しくあるまいし、簡単に否定できるものでもあるまい。
はてなブックマークで珍しく高村氏に同調する下記コメントのように「ポリコレ」と「面白さ」が排他であるかのような主張は、差別されて面白くないといった感想の否定に他ならない。
id:rag_en 100万分の1という数字が正確かはともかく、(このツイにネガティブな)ブコメ群の理解力が低すぎる。 https://b.hatena.ne.jp/entry/4724754497904819459/comment/rag_en 面白さや考証ではなく、ポリコレに基づいて設定してない?という話で。
「ポリコレ」を反差別と考えれば*1、それ自体が被差別者にとって共感の一助になるだろうし、社会に対する新たな視点に気づかされることも面白味のひとつだろう。
こうした批判に対して高村氏は、はてなブックマークページでコメントして、今度は時代劇の配役を制限することを正当化していた。
id:taka_take 運よく貴族のお抱えになって、自身も貴族入りしたレアな黒人を描くことと、黒人貴族が当たり前にいると描くことは全く違う。 後者は信長に仕えた黒人の弥助がいたからと、戦国武将を黒人にするようなものだ。
これもすでに指摘されているように、お歯黒の有無をはじめとして、一般的な時代劇にしても考証よりも優先していることが多数ある。
id:yas-mal 歴史考証が満点でない作品なんていくらでもあるのに、黒人の登場だけ、「考証的に正しくてもレアケースを描くのはダメ」と過剰な厳密性を求めるの、差別意識以外で自分で自分に説明できてるんだろうか。
id:tokorozawasawako どうでもよくない?日本の時代劇だってお歯黒してないし
人種を超えた配役にしても、忠臣蔵をキアヌ・リーヴス主演で架空日本ファンタジーとして再構成した『47RONIN』などが存在する。
外国による日本作品のリメイクといっても、『荒野の七人』のように舞台そのものを西部劇におきかえた作品ばかりではない。
黒沢監督の「七人の侍」をハリウッドで映画化するに際して、「白人の侍」を出すのではなくて「七人のガンマン」の話にして西部劇に変換した昔の人たちの方が、よほど多様性に富んだ考え方をしていたのではないか。
— MASA (@masa_0083) 2022年9月4日
黒沢監督の「七人の侍」をハリウッドで映画化するに際して、「白人の侍」を出すのではなくて「七人のガンマン」の話にして西部劇に変換した昔の人たちの方が、よほど多様性に富んだ考え方をしていたのではないか。
「MASA@masa_0083」氏の上記ツイートは3万以上のいいねを集めているが、むしろ後述のように高村氏の主張を根底からくつがえす内容でもある。
日本でもアニメ作品として黒人の侍を主人公にした『アフロサムライ』がつくられ、世界的に充分な売り上げを出したらしく、続編も制作された。
『七人の侍』を和風SFとして再構築したTVアニメ『SAMURAI7』も、雇われる侍のキャラクターデザインに多様な人種をとりいれていた。
日本の代表的な怪談にもとづく極彩色のTVアニメ『モノノ怪』では、同じ日本人でもキャラクターは多様と示すデザインがなされた。
階級社会や家父長制の搾取や欺瞞をアクションやミステリの根幹にすえた上記の作品群は、高村氏や同調者には受けいれがたいのかもしれないが。
また高村氏は、西部劇でも黒人カウボーイの登場に拒絶感をあらわにして、実際には正確な考証にもとづいて黒人を登場させたと指摘されている。
西部劇を見たこと無いと自白してるなあ。
— 高村武義 #WalkAway (@tk_takamura) 2022年9月5日
西部劇では時代考証をちゃんとして、黒人奴隷やネイティブアメリカン、アジア人を被差別階級として描いてるぞ。
ところが今のポリコレ映画では、そういう時代考証を無視して、デタラメな世界観を書いてるから批判されている。 https://t.co/IJWwAjniBe
西部劇を見たこと無いと自白してるなあ。
西部劇では時代考証をちゃんとして、黒人奴隷やネイティブアメリカン、アジア人を被差別階級として描いてるぞ。
ところが今のポリコレ映画では、そういう時代考証を無視して、デタラメな世界観を書いてるから批判されている。
1950~60年代の比較的早い時期から、単なる被差別階として以外の有色人種を描いて来たのが西部劇というジャンル。今のポリコレガー従来のイメージガーみたいな白人至上主義者に反発されながらね。「西部劇を見たこと無い」「時代考証を無視して」るのはアンタだよ。 https://t.co/3q1PqHGyr5
— リンゴジュース・ビル (@eUSfF6H5Iwpuulz) 2022年9月5日
1950~60年代の比較的早い時期から、単なる被差別階として以外の有色人種を描いて来たのが西部劇というジャンル。今のポリコレガー従来のイメージガーみたいな白人至上主義者に反発されながらね。「西部劇を見たこと無い」「時代考証を無視して」るのはアンタだよ。
西部劇が先住民を被差別者ではなく襲撃者と位置づけた時代も長かったし、イタリアが西部劇をつくって輸出した時代は「マカロニウエスタン」という言葉まで生みだした。
先述の『荒野の七人』で主演するユル・ブリンナーにしても、エジプト人の王など非白人にも配役されたように、モンゴル人の血を引くロシア出身俳優であり、いわゆる白人俳優とはいいがたい。
またクリント・イーストウッド主演の西部劇『許されざる者』は相棒として黒人の賞金稼ぎが登場し、1991年にアカデミー賞の作品賞も受けている。
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つまり西部劇で先住民たちを被差別階級と描くことは高村氏のいう「ポリコレ」による変化だろうし、日の当たる場所に先住民や黒人が存在した描写も考証として間違いではない。
ちなみに高村氏は表現規制に反対する局面でも、事実関係の誤認や誤読をくりかえし、好まない表現の消滅を呼びかけてきた。
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いったい高村氏は表現の自由をどうしたいのだろうか。そもそも表現そのものにきちんと向きあえているのだろうか。
*1:「ポリコレ」という言葉は、多様性などと違って制作者がもちだす場面はあまり見ることがない。どちらかといえば反発から逆算するように見いだされることが印象としては多い。