今月のはじめ、表現の自由にかかわる自民党と共産党の政党としての性質を比較したことがあった。
hokke-ookami.hatenablog.com
どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。
特に、“儲からないよね”という言葉に引っかかる表現の当事者が当時から少なくなかったらしいことが不思議だ
どちらの団体の傾向が正しいかはあえて論じない。あるいはどちらも表現の自由の敵だと感じる人もいるかもしれない。
しかし、よく近年のインターネットで語られる「表現の自由」や「市場」というものが、実際のそれとは乖離しているのではないかとは思える。
上記へ批判的なはてなブックマークコメントがあり、いくつかコメント欄で応答したのだが、特に再反論が見あたらない*1。
ひとつ追記したいことがあったので、ゾーニングにまつわる応答ふたつだけエントリに転載しておく*2。
id:rag_enさんへ
タイトルの前半はゴリゴリの党派性脳、
虚構の現実への影響を重視する党派の存在の指摘を「ゴリゴリの党派性脳」とだけ表現した時点で、貴方が本当は表現規制に反対しているわけではないことが明らかになりましたね。無視したほうがまだ良かったです。
後半はhokke-ookamiさんお得意のアクロバティック読解でまさかの真逆に解釈。 https://b.hatena.ne.jp/entry/4710045222117655042/comment/rag_en 吉良よし子氏の発言はむしろ「自由市場」のガチ否定。
貴方が「アクロバティック読解」という表現を多用することに対しては、「悪口は自己紹介」という言葉を思い出しますね。
念のため、ゾーニングが表現規制のひとつだという主張はありえますが、市場の多様性を守るためにはゾーニングも選択肢のひとつでしょう。
「自由」なアニマルスピリットが市場を崩壊させるパラドクスは先日も話題になったばかりですよ。
hokke-ookami.hatenablog.com
表題も中身も「何云ってんだこいつ」案件。為政者がゾーニングを薦めるのは紛う事なき表現規制の強要だろうが。例えばの話、為政者が報道機関に「ゾーニングしてくださいね」と云えば大問題だろうに。
引用している共産党議員の発言は、個別具体的にゾーニングを指示する内容ではありませんね。言論の自由を行使しあう調整の一環として選択肢を提示しているだけです。「何云ってんだこいつ」と思われるのは、貴方が他人の発言を歪曲して解釈しているためでしょう。
その上で、たとえば赤松健氏は自民党の政治家へロビー活動をおこなった時、ゾーニングを不充分なりの妥協ではなく、「言質」として肯定したことがあります。この主張をとりさげないかぎり、自民党や赤松氏も表現規制派だと貴方は認めるのですね。それは結果的にせよ正しい現状認識なのかもしれません。結論から申しますと、この議連は思ったより「良い」と感じます。馳先生とも意気投合しまして、「一方的な漫画アニメ規制はしない」「ゾーニングなど業界の自主規制にゆだねられるべきで、立法化は馴染まない」などの言質も取ってきました(ネット公表OK)。馳ブログに私とのツーショットも載るかもw
— 赤松 健 ⋈ 参議院議員 C100(土)東シ54b (@KenAkamatsu) 2014年10月22日
結論から申しますと、この議連は思ったより「良い」と感じます。馳先生とも意気投合しまして、「一方的な漫画アニメ規制はしない」「ゾーニングなど業界の自主規制にゆだねられるべきで、立法化は馴染まない」などの言質も取ってきました(ネット公表OK)。馳ブログに私とのツーショットも載るかもw念のため、上述のようにゾーニングもまた表現規制という考えも間違いではないと私は思います。だからこそ「どちらの団体の傾向が正しいかはあえて論じない。あるいはどちらも表現の自由の敵だと感じる人もいるかもしれない」ともエントリで書きました。
ただし業界団体でも少なからず妥協策としてゾーニングを選んできた歴史がある以上、抗議を受けつつ出版できる選択肢としてのゾーニングの提案をも規制派として拒否するとなると、その見識にかなう政治家はまずいないでしょうね。
natalie.mu
たとえば表現の不自由展がゾーニングされていたことに対して、山田太郎氏があいちトリエンナーレ運営を表現規制と批判したとは聞きません。政治とは意見を調整する仕事である以上、原理的にゾーニングを全否定する立場は難しいものです。不可能とまではいいませんが、自民党で平井卓也氏への応援をおこなうくらいの妥協はする山田氏には期待できないでしょうね。
上記の応答をした時点では「表現の不自由展・その後」への山田氏の実際の言及について問われて、実際にどのような態度をとっていたのかを語りあう用意があった。
しかし特に再反論がなくて機会を失いそうだったので、当時のツイートを紹介しておく。ここで山田氏は「クローズド」にするゾーニングを公権力の介入を止める前提のように位置づけている。
あいちトリエンナーレ、私の基本原則は明確です。今回はクローズドな場所でのこと。公権力が表現を発することを中止させてはなりません。ただし、発した表現については表現者は責任を負うべきです。私個人は今回の表現は好みません。関係者に危害が及ばないことを望みます https://t.co/7WDGYjMKTy
— 山田太郎 ⋈(参議院議員・全国比例) (@yamadataro43) 2019年8月3日
あいちトリエンナーレ、私の基本原則は明確です。今回はクローズドな場所でのこと。公権力が表現を発することを中止させてはなりません。ただし、発した表現については表現者は責任を負うべきです。私個人は今回の表現は好みません。関係者に危害が及ばないことを望みます
www.huffingtonpost.jp
また、政治家として「ただし、発した表現については表現者は責任を負うべきです」という原則を語り、「今回の表現は好みません」とわざわざ表明している。それぞれ原則として一個人の自由として特に問題があるとは思わないが、脅迫という規制とはまた別の自由の危機にさらされていたことなど、優先して言及すべきことは多かったと思うのだが。
いずれにしても山田氏の上記ツイートが規制派ではないと評価するならば、共産党の吉良よし子氏を規制派とみなすことは、たいへんに難しいと思う。逆に両方を規制派議員とみなすのであれば、それはそれで一貫性はあるとは思う。