法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

Colaboが支援対象に介入する局面を否定したいなら、支援対象を管理しない方針は肯定されるべきだろう

ヤヤネヒロコ氏による下記noteが注目を集めていた。シェルターの麻薬検査に抵抗するエミコヤマ氏*1のエントリを引いたものだ。
colabo事件に関するスクラップ(1) シェルター型主体の女性支援撤廃の必要性と、困難女性支援法|ヤヤネヒロコ|note

以下の文章は、米国シアトル在住のフェミニスト、macska氏によるものである。DVシェルターにおける支援者-被支援者の権力の不均衡について書かれている。

DVシェルターという閉鎖空間そのものが、暴力的なパートナー間の関係とよく似た「権力と支配の構図」−−支援者団体ではDVのことをよくこう表現する−−を再生産してしまっている

Colabo固有ではない部分を批判するために、その形態の活動全般への批判をもってくるまでは、他のColabo批判*2より整合性はある。
しかし尿検査をするくらいなら麻薬使用を見逃すべきと米国のシェルターを批判したエミコヤマ氏と違って、ヤヤネヒロコ氏はシェルターやトランジショナル・ハウジングを必要と考えて、日本のシェルターへ批判を限定していく。

実際のところ、短期滞在のための施設、そして、自立支援移行施設的なものは必要であろうと思う。とはいえ、今の日本の女性シェルターが、被支援者の人権を尊重できる座組に転換できるかといえば、望みは薄いと考えざるを得ない。

DVシェルター型の支援のパターナリズムは、支援対象の職業にまで及ぶ。少なくとも日本において、DVシェルターの運営にはキリスト教勢力の影響が強く、廃娼運動の時代から思想が一歩も進んでいない。結果的に支援から取りこぼされる女性が増える―――DVの相談数が増えているにも関わらず、女性シェルターの利用者は年々減少している―――のは必然といえる。

上記の見解に具体的な根拠は見られない。民間のDVシェルターは行政にも情報をわたさない傾向があり、たとえば2019年の政府調査においても保護件数の増減はわからない。
https://www.gender.go.jp/kaigi/kento/shelter/siryo/pdf/1-6.pdf
表を見ると民間シェルターの数は2008年まで増えつづけ、2009年から運営団体を数える方式に変えてからは横ばいだ*3。負担になるシェルターを閉鎖しないことから保護件数が減っているとは思いづらい。
そして上記の調査で一時保護件数が減少しているのは婦人相談所だ*4。もとは半世紀以上前に売春を禁じる法律のために作られた保護施設で、民間ではなく行政が運用している。
婦人相談所 | 内閣府男女共同参画局
一方で民間は、オリーブの家という団体の保護件数が近年に急増しているという報道は見つかったし、Colaboもまた年々シェアハウスを増やしながら全員をすくえないでいる。
DV保護シェルターは満室 ヤングケアラーからの相談も…「1人も虐げられない社会に」広がるSOS対応【岡山発】|FNNプライムオンライン

日本のシェルターは思想的な選別より前に資源的な限界で利用者を断る段階だ。むしろColaboは、そうして行政から依頼された保護を断ったことが非難の根拠にもされてきた。
異なる支援運動を「踏みつける側」に位置づけようとする運動家が、同日に他人をはっきり踏みつけていたのでどうしようかと悩んでいる - 法華狼の日記

すべてをすくうと仁藤氏自身が表明していたなら支援を断ることが批判されてもしかたがないが、実際は民間の限界と公的事業の重要性をくりかえし語っている。

逆にエミコヤマ氏は、民間だからこそ米国と比べて日本が新しい支援に変えやすいと考えていた。この文脈の「既得権益」は、ほとんど自費で運営しているColaboには当てはまらない。
macska dot org » DVシェルター廃絶論−−ハウジング・ファーストからの挑戦

米国ほどDVシェルターの普及が進んでおらず、公的資金の支援も比較的少ない(既得権益が小さい)日本のほうが、新しい支援の仕組みを作り出すには有利かもしれない。

エミコヤマ氏が批判した支援対象者への検査も、公的機関の要請をきっかけとしている。管理の欲求は、先述した婦人相談所のように、私的団体より公的機関が強い傾向がある。
はてなブックマークで見られるような、行政がシェルターを運用するべきという本来なら一理ある主張は、エミコヤマ氏の問題意識には反している。
[B! 福祉] colabo事件に関するスクラップ(1) シェルター型女性支援撤廃の必要性と、困難女性支援法|ヤヤネヒロコ|note

id:saihateaxis やっぱコストかけて行政がやるべきなのかもな。アウトソーシングは減らしてくと


ヤヤネヒロコ氏は、下記のように「Colaboの不正会計」が確定したかのように語っているが、それは「類似の顔ぶれの人々が成立させたAV新法」*5をとがめる手段のようだ。

AV産業やセックスワークの業界健全化や関係者の人権について、当事者を参加させた国政での議論がまったく行われていないのが現状だと思うのだが。「困難女性支援法」施行前のこのタイミングでColaboの不正会計が明るみに出たのは何かしらの采配としか言い様がなく、この機会に何とか白紙に戻せないものか(土台がダメなので、白紙に戻すくらいで良いと思う)、といったことを考えている。

このnoteが肯定的に注目をあつめていることは、「焦点は不正会計」*6のような見解がColaboをめぐる状況をとらえていないことを意味している。
Colaboや仁藤夢乃氏を批判したい目的が先にあり、それにつかえそうな情報があればそれが本題となり、その情報がつかえないとわかれば「世間的にもどうでも良い」と捨てるわけだ。
前例として、言及しないことを「ノータッチ」ととがめる意見も出ていた無料ピル事業などは、あくまで医師側が主体の慈善事業でColaboは協力団体のひとつにすぎないと指摘した後、ほとんど忘れられている。
仁藤夢乃氏の支援団体Colaboの検証をしたいのであれば、無料ピル事業についても一般的な支援事業との比較は必要 - 法華狼の日記

バズフィードの記事を読めばわかるが、無料ピル事業は医師の宋美玄氏のおこなう支援であって、あくまでColaboは報道時点でただひとつの協力団体だっただけ。

Colaboと特定のむすびつきがある事業ではない。報道後の今年6月からは、風俗従事者向け支援団体の風テラスも無料ピル事業に協力している。

Colaboが出したQ&AのQ4に入っているが*7話題になっていないようだ*8。さまざまな疑問に対するQ&Aの回答をツイッターで指摘する活動をしている「Colaboと仁藤夢乃さんを支える会@Colabomamorukai」の言及も、Q&Aをひとつひとつ紹介した時の一度だけで、そのツイートへの反応も比較的に少ない。

ハウジング・ファーストもColabo批判にはつかいづらいと思われれば、残念ながら現状では忘れられていくだろうと予想できる。


エミコヤマ氏も、自説が特定団体を否定する目的でつかわれることは予想していなかっただろう。
きちんとエントリを読めば、あらゆる形態や状況における管理や介入までは否定していない。支援対象者から求められたため介入した体験も書かれている。

自分一人はDV被害者に対する尿検査を行なわない、程度の抵抗はもちろんしたが(ただし一人だけ、「自分は麻薬を辞めたいのだけれど、自分を律する自信がないから、検査させられると思った方が辞められる」という人がいたので、その人だけは彼女の希望どおり検査した)

あくまで2008年時点の観察と考察からハウジング・ファーストを優位と考え、「代替」として提示したのであって、代替がなくてもシェルターを廃止するべきとは主張していない。

最近になってようやくDVシェルターを代替できそうな、ある可能性が見えてきた。

ハウジング・ファーストを実施している団体はシェルターに反対しているわけではないが、少なくともDV被害者支援においてハウジング・ファーストよりシェルターが勝っている点はないように思う。

また、エミコヤマ氏はツイッターで2018年にホームレス対象のハウジング・ファーストへの批判を紹介して、応答の必要があると考えている。

ホームレスに比べるとDV被害者は安定した収入源を見つけやすいだろうが、女性というだけでなく未成年者*9を対象とするColaboは上記の批判と同じ問題をかかえている。
もちろんこれは支援団体の介入を全肯定できる根拠ではない。しかし支援団体が葛藤しながらシェルターで管理や介入をする背景のひとつとして認識するべきだろう。
一応、ヤヤネヒロコ氏のnoteでも、ハウジング・ファーストが日本で実践しやすい可能性の根拠として、生活保護という収入源が期待できることは書かれている。

生活保護制度が比較的手厚い(予算を渋る自治体による水際対策という分厚い壁はあるが)日本では、macska氏の指摘の通り、ハウジング・ファーストの実践はより容易であるように思う。

しかしColaboのシェルターへの否定的評価のひとつに「生活保護ビジネス」*10があったことを思えば、まずヤヤネヒロコ氏は暇な空白氏*11らのColabo批判と対立しなければならない*12
Colaboが支援対象者に望まれるまま住居をさがして家賃を提供して、支援件数を減らさないなら、おそらくColaboの支援活動における公金の支出も増える必要がある。


そもそもColaboは当事者団体を自認して、支援対象へ権力関係が発生する問題を認識しながら活動してきた。
その自認が充分か、構造的な問題を解消できるかは別問題だが、支援対象者へ団体が管理介入する構造を代表させる団体として適切とは思えない。
介入を弱める実践もしている。一時シェルターはDV保護どころか宿泊にかぎらず多目的な利用を許し、中長期シェルターは入居者とのミーティングでルールを決めているという。
https://colabo-official.net/wp-content/uploads/2022/07/colabo2021.pdf

宿泊以外にも、日中のんびりするのに使ったり、パソコンや宿題をしにきたり、キッチンやお風呂や洗濯機の利用も自由にできるようになています。

入居者の主体性を尊重し、ルールは毎月のミーティングで一緒に決め、食事やゴミ出しなどは自分たちで行います。Colaboは彼女たちが主体的に生活を送れるようにサポートし、今後の生活に向けて一緒に考えます。

固有の事業のためか「疑惑」の対象にされがちなバスカフェもColaboの実践のひとつだ。以前に紹介したように、意識的に介入をさける運用をおこなっている。
仁藤夢乃氏の支援団体Colaboがバスカフェで提供している食品が一食2600円という計算は、さまざまな意味で誤っている - 法華狼の日記

公的支援に繋がらない少女」のために、交流よりも居場所をつくることを優先した事業であり、シェルターでの食事と違って意識的に介入をさけている。

自己責任論の中で「自分が悪い」と思い込み、声を上げられずにいる人もいます。「相談」や「支援」という言葉や行為に抵抗感を持つ人も少なくありません。

利用してもらいやすいように、大人が「してあげる」場所ではなく、「少女たち自身の場所」として、気軽に立ち寄り、セルフサービスで、自由に過ごせる雰囲気を大切にしています。

そして介入や管理をさけたバスカフェは、それゆえに実施した支援の実数の把握が困難であることも指摘した。

不特定多数を対象とするバスカフェでは何人を支援したかまでは数えているが、配布をセルフサービスにするほど介入をさけているのに一人一人の食事量までは監視できないだろう。

バスカフェのように支援対象への介入をさけるなら、支給の状況を厳密に確認することも難しい。つまり見かけの「不正会計」は、ヤヤネヒロコ氏の求める非介入によっても発生する。
そう、支援活動における非管理不介入の方針は、活動の厳密な情報を把握したい要求とも構造的に矛盾するのだ。


介入をさけた理想的な支援をおこなうためには、不正や無駄を覚悟して不明瞭な現場にも公金を投入しなければならない。
それでも支援対象者を信じて管理せずに公金を投入すれば、社会全体としては無駄が少なくなり、すくう範囲も広がるだろう、とは考えている。
そのためにも、日本でハウジング・ファーストの試みを誰が推進し、誰が抑圧してきたのか、歴史をふりかえる必要があるだろう。

支援対象者への管理介入をできるだけ止めようとする動きは、たしかに悪いことではないのかもしれない。できれば忘れないでいてほしい。

*1:はてなアカウントがid:macska

*2:Colabo固有の問題のように主張して、結果として支援運動全般への無知を露呈した事例は、こちらのエントリでいくつか批判している。 hokke-ookami.hatenablog.com

*3:ノンブル10頁。

*4:ノンブル25頁。

*5:仁藤氏らは妥協を許さないという立場からAV新法に反対していて、調整や妥協による法律を成立させた立場とはとうていいえない。現在の国会において自民党が賛成しない法律が成立することはまずありえない。もともと成人年齢の引き下げにあわせて「取り消し権」を残すための法案が、全年齢に適用されるように変更されたのは与党の意向による。www.jiji.com

*6:こちらのコメント欄よりid:Capricornus氏のコメントを引用。少し後に引用した「世間的にもどうでも良い」も同様。 hokke-ookami.hatenablog.com

*7:https://colabo-official.net/wp-content/uploads/2022/11/HP.pdf

*8:12月12日にColabo側の説明をふまえずに過去の「疑惑」をそのままならべているツイートを見つけたか、Q&AのQ4と同じく、無料ピル事業単独ではない複合的な主張になっている。

*9:ヤヤネヒロコ氏のnoteに対するはてなブックマークid:crowserpent氏が指摘するように契約の問題などもある。

*10:その根拠となる資料解釈の誤りはこちらで批判した。 hokke-ookami.hatenablog.com

*11:はてなアカウントはid:kuuhaku2

*12:実際のヤヤネヒロコ氏は被言及で注目をあつめた時、特に拒絶するようなふるまいはしなかった。