法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

古臭いデマを見かけて、米軍基地への抵抗運動は徒労感とも戦いつづけていることを実感する

「オタ小児科医@otapediatrician」氏が、沖縄以外の米軍基地が無視されていると主張していた。沖縄に負担を集中させてきた歴史的な経緯には言及せず。

他のツイートを見ると横須賀在住らしいが*1、他地域の負担にも目を向けてほしいと願っているわけではなく、沖縄における抵抗を蔑視している*2
たしかに在日米軍基地はさまざまな地域で問題を起こしてきたが、もちろん批判もされてきた。沖縄県の負担や抵抗を矮小化していい根拠にはならない。

はてなブックマークではさすがに批判が大勢のようだが、ひとつ話題をずらしつつ沖縄県民への偏見を再生産するコメントがあった。
[B! 沖縄] オタ小児科医 on Twitter: "沖縄県の基地問題、「沖縄だけに負担を押し付けるな」みたいな物言いをする人がよく居るけど、そういう人って横須賀とか岩国とか厚木とか横田とか佐世保とか三沢の存在をカジュアルに無視するよね。"

id:tikuwa_ore 負担もクソも、戦後何もない空き地に基地が建ち、そこに基地需要を求めた人が集まり、メリットを享受しつつもデメリットが出てきたら「基地は出ていけ」って、控えめに云って頭おかしいって話やろ。アホか。

もちろんこれはくりかえし否定されてきたデマにすぎない。
数年前にもインターネットで「普天間飛行場は何もないところにできた」「住民は自ら危険な基地に接近した」という話題があり、あらためて否定されたばかりだ。
<沖縄基地の虚実14>古里奪われ周辺居住 爆音訴訟判決でも否定 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト

収容所から解放された宜野湾村の住民が目の当たりにしたのは米軍の飛行場となった故郷の姿だった。村内にあった国指定天然記念物の3千本もの松並木は切り倒され、県内最大級の馬場も消えた。中部地区の農作物や海産物が集まり、にぎわいを見せていた中心街の面影はうせた。

米軍は旧宜野湾村の大部分を軍用地区に指定し、住民の居住を制限した。故郷に帰れず、現在の宜野湾区に住むようになった住民は米軍施設の活動に支障を与えない程度で許されていた耕作を始めた。しかし、1952年に米軍は飛行場再使用の通達を出し、軍用地内の墓の撤去を強行。その後、飛行場全域をフェンスで囲った。

映像では普天間飛行場内に集落があったことが確認できる。

一般的に戦争で住民が追い出された状態を「空き地」と呼ぶことが妥当だとは思えないし、戦後にもどってきた住民がふたたび追いだされるように基地が拡大していった経緯もある。
そもそも飛行場につかえるような「空き地」があれば、住民がなんらかのかたちで利用していたと想像できないものだろうか。複数の島で構成された沖縄に、人間がつかえる広い土地はそう多くない。
2015年に問題となった自民党勉強会における百田尚樹氏の発言も、「空き地」ではなく「田んぼ」というデマだった。検証を無視して再生産されるなかでデマが劣化している。
普天間接収の歴史発信 百田氏の誤認、一目瞭然 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト

百田尚樹氏が自民党若手議員の勉強会で「普天間飛行場はもともと田んぼだった」などと発言したことが問題になっているが、戦前の宜野湾村や普天間飛行場の成り立ちについて写真や資料で紹介した企画展が17日から宜野湾市立博物館で開催されている。

宮城邦治館長は展示物を示し、「役場や学校、郵便局などがあったことが一目瞭然だ」とし、百田氏の発言が事実誤認だとの認識を示した。

また、先日に揶揄の対象となった辺野古の基地は移転という名目の新設で、軟弱地盤のため完成のめどがたたないまま工事をつづけている。「基地需要を求めた人」が集まる順序は存在しない。
hokke-ookami.hatenablog.com
それでも米国の責任を軽くしたいなら、大日本帝国が戦争しなければ「空き地」にならなかった、と主張するくらいしかできまい。いま沖縄を揶揄する人々にそれができるだろうか。

*1:

*2: