法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ジョーカー』

雇われ道化師として糊口をしのいでいる中年男アーサーは、老母をささえて貧しい生活を送っていた。しかし社会の底辺で失敗をくりかえし、思わず人を殺してしまう。
荒れた都市において殺人が寓話めいた反抗と解釈されたが、アーサーは変わらぬ生活をおくりながら逆転劇を夢見る。そして老母の語った真実がすべてをひっくりかえす……


DCコミックスヴィランを主人公に、オリジナルのオリジンを描いた2019年の米国映画。『ハングオーバー!』シリーズのトッド・フィリップスが監督し、ヴェネツィア金獅子賞を受けた。

アメコミらしいキャラクターのくすぐりを入れつつ、実話にもとづく劇映画のように構成。予算がつくアメコミ原作という形式を利用して監督がやりたい企画をとおした映画らしいが*1、そこで全体が調和をとって抑制され、現実味ある世界をかたちづくっている。それも少し古い時代の映画っぽいリアルさで、主人公の語りが虚実さだかではないことをきわだたせる。
比べるとクリストファー・ノーラン作品はアメコミヒーローをリアルに描いたようで、小道具のリアリティやプロットの整合性を気にしていないこともわかる。


同時代の貧困を描いた傑作群『わたしは、ダニエル・ブレイク』『万引き家族』『パラサイト 半地下の家族』*2などが弱者同士の連帯、利用、対立を描いたことに対して、この『ジョーカー』の弱者は他人とつながることがない。
いったん立場や性別や階級を越えた関係性を期待させ、すべて虚像にすぎないと根底から否定していくあたり徹底している。同時に、その断続的な期待によって、鬱屈しつづける展開でありながら娯楽として観客の興味を引くことができている。そうして他の弱者もふくめて、虚像に扇動されることはあっても理解で協力することはできない。
虚像がきっかけであっても行動を肯定していく物語ならば、動機を問いなおして再構築する過程がどこかで入るものだ。この映画にはそれもない。社会における不遇とは何か、他の作品群が実態をとらえて浮き彫りにしようと多様な試みをしているなかで、どこまでも個人の不遇感ばかり抽出している。


見ていて思い出したのが、とある韓国映画だ。貧困層の母子家庭と殺人事件のかかわりを描いて、社会問題を背景としつつも、やはり個人のドラマとして収束する。その映画の視点を少し変えると、このような作品になる。
物語における殺人は、他者を認識したコミュニケーションの一環として描かれることが多い。しかしこの映画は徹底的に他者の否定として殺人を描いている。
主人公は殺害した相手への興味を失っていくし、死体や犠牲者について後から長々と回想したりもしない。犠牲者に目を向け記憶しようとする人々は、否定すべき相手として描かれる。
もちろん閉塞感ある物語において殺人はカタルシスをもたらすが、良くも悪くも状況を動かすような力はない。結末が示すように、客観的には主人公をさらなる閉塞へと追いこんでいった。
この映画は社会における不遇感をうまく描いているが、けしてそれに同調してはならないと注意すべきだと思った。