法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

軍艦島が「地獄」と呼ばれたのはいつから?

もちろん日本人証言者でも、少なからず炭鉱夫の苦難を語っていたことが記録されている。
note.com
一方で、世界遺産を広報する立場からは、登録時に条件づけられた強制連行の明記に抵抗して、くりかえし支配者側からの美化が表明されている。
ドキュメンタリ映像を他の炭鉱のものと主張しながら、同時に労働環境が良い証拠として造船所の給料袋を展示するような矛盾もきたしていた。
hokke-ookami.hatenablog.com
悪評にもとづく「地獄島」という表現への反発もよく見られ、新聞に意見広告を出すクラウドファンディングも達成した。
readyfor.jp
端島と高島の混同を疑った澤田克己氏の毎日新聞記事に対して、高島も地獄島ではないと反発したこともある。
日本人労働者の血と汗、そして産業遺産を考える | オアシスのとんぼ | 澤田克己 | 毎日新聞「政治プレミア」

 私は前回、「端島は地獄島だった」と非難する韓国の絵本「軍艦島」を取り上げ、絵本の描写が1880年代の高島炭坑に関する記録に似ていると指摘した。

 絵本への疑問を呈したのだが、加藤さんは違う理解をしたようだ。「Hanada」で「今度は高島を地獄島だったと言い始めたのです。具体的な根拠はあるのでしょうか」と私を批判している。

 だが、高島の労働環境が非人間的と言えるほど苛酷だったことは有名だ。私のコラムでは、三菱鉱業セメント(現三菱マテリアル)が閉山後にまとめた「高島炭砿史」(1989年)などを根拠として明示した。

澤田氏は高島については過酷だった根拠があると反論していた。
しかし誤りがあれば修正されるべきだとして、逆に高島のような過酷さが端島になかったといえるだろうか。
そもそも炭鉱が「地獄」とされたのは、「韓国側」に固有の認識なのだろうか。


まず端島の観光地化と記録をおこなっている「軍艦島デジタルミュージアム」では、長くつづく過酷な階段が「地獄段」という通称とともに再現されている。
地獄段の舞台裏!?|軍艦島デジタルミュージアム

4階にあがると目の前には大きな地獄段の舞台セットが!
こちらの舞台セットは昨年上演された軍艦島を舞台にしたお芝居、
『バッキャロー!シリーズ』に使用されたセットです。

また、かつて船が脆弱だった時代には、海の恐ろしさを表現するように「板子一枚下は地獄」ということわざがあった。
同じように軍艦島ミュージアムでも、近隣の高島炭坑についての手記『地獄の底は頭の上』を歴史的な証言として推している。毎日新聞も紹介していた。

出版:「地獄の底は頭の上」 高島炭鉱の日々、長崎市の岩崎さんが体験つづる /長崎 | 毎日新聞

世界文化遺産明治日本の産業革命遺産」の構成資産「高島炭坑」で働いた長崎市の岩崎健典(たけのり)さん(76)が、炭鉱での体験をつづった「地獄の底は頭の上」(テラヤ書房)を出版した。

こちらは1980年から1986年までの体験談で、世界遺産になった時代の遺構とは直接の関係はないが、単語選択が興味深いところではある。
高島と端島はたしかに異なる炭鉱だが、時代も場所も近しい。大きな違いがあると澤田氏らが主張するなら、その根拠が必要だろう。


そもそも端島世界遺産になるように活動していたNPO軍艦島世界遺産にする会」では、かつて下記のような記述が引用されていた。

ノンフィクション作家林えいだい氏の著書「死者への手紙」の”まえがき”で著者は次のように触れています。(抜粋。この本は現在でも入手購入が可能です。)

 一端強制連行され島に入ると、東シナ海黒潮の潮流により島からの脱出は不可能であった。孤島の閉鎖性のために中でどんな圧制が行われても絶対に外部に漏れることはなかった。端島の岸壁の桟橋に残る石造りの門は一生出られない「地獄門」であり、崎戸島も「鬼ヶ島」といわれ、高島は「白骨島」、3つの島は「1に高島、2に端島、3で崎戸の鬼ヶ島」と言われ、その存在は人々からおそれられた。

慣用表現で高島も端島も同列にあつかわれている。どうやら最後に崎戸を鬼ヶ島と呼ぶのが基本形で、一番目と二番目は他の炭鉱が入る場合もあるらしい。

 ここでは、端島の歴史の一つとして強制労働に触れ事実の一端をお伝えするにとどめます。時代背景や更に詳しい実態をお知りになりたい方は改めて検索していただくか、上記書物などを参考にしてみて下さい。

末尾の断り書きに見られるように、あくまで中立的な筆致ではあるが、しかし立場によっては「地獄」と表現されていた事実は認めていた。
世界遺産になった後の「軍艦島世界遺産にする会」はさまざまな強制を否認する方向へかたむいているが、「尺度は一人一人違う」という見解からの記述も残っている。
さまざまな軍艦島 - 軍艦島を世界遺産にする会 公式 WEB

軍艦島を・・地獄島、緑のない島と表現するのは簡単でしょうが

ものさしを変えて図ってみるとその中には明るく楽しいダイナミックな

島おこし、町つくりがされていたことも見えてくるのではないのでしょうか。

この記述を逆に考えれば、他人の尺度では「地獄島」「緑のない島」と表現されることも認めている。


さらに「1に高島、2に端島、3で崎戸の鬼ヶ島」という慣用表現を調べると、まさにそれをタイトルにもちいた書籍が2020年に出版されていた。

著者の中西徹氏は元編集者で、終戦直後に崎戸で出生したという。タイトルが象徴するように労働の過酷さや強制連行にも言及しているようだ。
近現代の炭鉱史まとめた本出版 崎戸町出身の編集者中西さん 「歴史見つめ直すきっかけに」 | 長崎新聞

 中西さんは、父が崎戸炭鉱の付属病院で働き、炭鉱を身近に感じながら育った。1968年の閉山後、関西へ移り、出版業界で勤務。閉山から50年を迎えるに当たり、炭鉱で盛衰した古里や、過酷な労働を強いられた人々の記録を残そうと書籍の編集を始めた。

中西さんは「労働者の強制連行など、負の部分にも光を当てた。歴史を見つめ直すきっかけにしてほしい」と話している。

ここで、反発する意見が検索の上位となる軍艦島端島ではなく、慣用表現で同列にあつかわれた高島や崎戸で検索してみると、1970年の書籍が引っかかった。
高島文献目録|島の図書館―離島文献情報サイト

「〝地獄島〟高島の圧制 坑夫を牛馬のごとく酷使」

著者は朝日新聞西部本社で、書籍そのもののタイトルは『石炭史話 すみとひとのたたかい』。章のひとつで高島が「地獄島」と表現されているようだ。

これも余裕ができれば内容を確認しておきたい。


いずれにしても、軍艦島をふくめて日本の炭鉱が「地獄」と表現されたのは最近にはじまったことではないし、韓国が被害をうったえる時だけにつかわれるわけでもない。
もちろん炭鉱の労働環境はどの時代も同じわけでもない。さまざまな抵抗で改善を勝ちとったこともあれば、戦時の増産体制で過酷さが増したこともあった。
しかし世界遺産の登録が明治時代の遺構ということを考慮すると、そもそも朝鮮人強制連行以前の、日本人に対して過酷だった時代から展示するべきだろう。
差別とは外だけでなく下にも向かう。外部からの批判から耳をふさごうとして、内部の苦難をも押しつぶす。それはきっと現在の問題にもつづいている。
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