法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

Vtuberと声優とディレクション

 まったくといっていいほどVtuberというコンテンツにふれたことがない。
 もともとユーチューバーや解説動画のたぐいに親しんでいないので、相互的なネット配信の楽しみかたがよくわからない。
 リアルタイムアニメ『みならいディーバ』のような前史的なコンテンツは視聴していても、VtuberをTVのバラエティ番組のようにつかった『バーチャルさんはみている』などは視聴するきっかけがなかった。
 愛着も憎悪もない無関心。もし現代のオタクならばVtuberに愛着があるのが当然というなら、私はオタクではないのだろう。


 ただTVアニメ『賢者の孫』第6話を見ていて、Vtuber「吉七味。」が演じるキャラクターが登場した時、とまどったことは記憶している。

www.youtube.com

 イベント的オーディションでキャスティングされた話題を知らなかったため、EDがVtuberのMVに変わったこともふくめて心の準備ができていなかった。
ED主題歌「圧倒的 Vivid Days」のMVが第6話のエンディングで初解禁することが決定!! |ED主題歌「圧倒的 Vivid Days」のMVが第6話のエンディングで初解禁することが決定!!

2018年10月avex picturesとSHOWROOMの合同企画として開催された史上初「女性バーチャルタレント限定」オーディション。
優勝者はTVアニメ「賢者の孫」EDアーティスト、そして声優としてデビューする権利を獲得するという規格外のオーディションの中、優勝に輝いたのはバーチャルタレント歴わずかの吉七味。だった。

 しかし上記の公式サイトニュースを見ると、そもそも審査で評価されたのは歌唱力だという。

彗星の如く現れ、審査では圧倒的な歌唱力を見せつけた彼女が水樹奈々茅原実里らへの楽曲提供で知られるElements Gardenのプロデュースで衝撃のデビュー。

 実際、それまでED主題歌そのものはアニメソングとして違和感なく、誰が歌っているのか気にならないくらいだった。


 原則として作品の完成形はディレクションに責任がある。演技の経験が少なくても、それを活用するようなキャスティングができたのではないだろうか。
 世界観にそぐわない服装のVtuberをつかったエンディング映像も、たとえばギャグに特化したエピソードであれば破天荒な演出として楽しめたかもしれない。
 しかし当時の不評をまとめたTogetterを見ると、起用する立場を批判するツイートも複数あるが、クレジットされているVtuberを対象とした批判がどうしても目立つ。
togetter.com


 ここで思い出したのが、『クレヨンしんちゃん』で知られる原恵一監督が炎上した事件だ。
 かつてアニメ作品にありがちな「気持ち悪い」キャラクター*1とそれにあわせた声優の演技を批判した記事が、声優蔑視のように流布されて反発されていった。
原恵一監督はアニメ声優の演技が気持ち悪いだなんて言っていない - ぬるオタな日々 by 少恒星

アニメーションを作る我々の側がそういう芝居や声の出し方を要求してきたからこうなったんだろうなと思うんです。考えてみれば当たり前の話なんだけど、それがたぶんオレは嫌いなんだなと最近気がついたんですよね。もっと違う芝居を要求してきていれば、多分もっといろんなものが出てきてたはずなのに、それをしてこなかったんじゃないかって。
みんな同じような声の出し方や芝居をしていると、僕はうんざりしちゃうんですよね。だから今回は、そういう匂いがしない声に全部したかった。
河童のクゥと夏休み』完全生産限定版コレクターズBOX 特製ブックレット 原恵一×浜野保樹対談より

つまり、声優に非があるのではなく、多様な芝居をアニメ界がもっと求めてこなかったことが、今日のアニメ声優の芝居につながっているだろうということだ。

 引用されているように、原監督は最終的に声優ではなく起用して演出するディレクション側の責任ということを明確化していた。
 それなのに原監督もふくめたディレクション側は存在そのものが無視され、ただ現場の声優をどのように評価したかという問題としてあつかわれつづけた。
[B! 声優] エコーニュースR – 「アニメ声優の演技は気持ち悪いと言ったせいで、根に持たれている」・・『百日紅』、原恵一監督記者会見


 現在のTVアニメを見ていると、もっと管理をゆるめて現場の好きにさせてほしいし、失敗もふくめて上下差や個性を許してほしいと思うことはよくある。
hokke-ookami.hatenablog.com
 もちろん現場の裁量にまかせることもまたディレクションの一種であり、ディレクションの放棄とは別物だ。だからこそ現場と監督の関係性と、その責任の所在は忘れないようにしたい。
 ひとつのコンテンツ、ひとつのディテールが論じられた時、論評の対象が現場と思いこむことは視野もせばめてしまう。たとえば監督への批判に反論するつもりが見当はずれになり、結果として矢面にした現場をむしろ傷つけかねない。


 これはアニメや物語といったコンテンツにかぎらない問題で、国策への評価でもしばしば見られる。
hokke-ookami.hatenablog.com
 現場を守るための批判なのに、矛先をそらしたい責任者だけでなく現場も自身への批判と解釈して反発することが珍しくない。
 もちろん評価の妥当性は個別に論じるとして、その対象がどこかは気をつけつづけるべきだろう。擁護する時も批判する時も。

*1:これについても、他では派手な場面をまかされる原画マンが地味な芝居をたんねんに作画しているという、演出指示によってアニメーターが変わるという文脈につながっている。くわしくは紹介しているid:shinchu氏のエントリを参照のこと。また、エントリの引用は太字強調やフォント変更などを排した。