法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

それでも、日本政府は「ロックダウン」のかわりに「フジロック」を選んだ

東京五輪の開催につづくように音楽イベントのフジロックが開催され、さらなる新型コロナの感染拡大と医療逼迫が懸念されている。
わからないままステージに…フジロック、葛藤の3日間:朝日新聞デジタル

 後援には湯沢町新潟県を始め、環境省観光庁も加わった形での開催となっており、主催者は約1年間、これらの行政機関と相談しながら調整を進めてきた。「我々はモルモット。英国やドイツでは大規模コンサートの開催実験が行われているが、万全に対策を講じれば、今後もロックコンサートを続けていけるのかの壮大な実験だと思う」。会場近くの民宿の経営者はそう語る。

参加人数は例年の1/4ほどらしい。ごく一部の参加予定者は出場辞退したし、葛藤を公言する参加者もいたが、疫病のみ批判して一曲目に国歌を選んだ参加者もいたようだ。


もちろん参加者は五輪選手と同じように個々の責任があるわけだが、すべて自己責任と切りすてるべきだとも思わない。
たとえ公演停止への補償がないだけでも、ただ自由市場にまかせるだけでは、状況にあわせた適切な辞退を期待することはできない。いわゆる「共有地の悲劇」だ。
共有地の悲劇とは - コトバンク

メンバー全員が協力的行動をとっていれば、メンバー全員にメリットがあった。しかしそれぞれが合理的判断の下、利己的に行動する非協力状態になってしまった結果、誰にとってもデメリットになってしまうことを示唆したモデルである。

音楽イベントでも、防疫のため収入を捨ててでも中止を選ぶ集団と、防疫を捨てて収入のため続行をする集団がいたとしよう。やがて前者は収入がえられず業界から退場して、後者は残った観客が音楽の視聴につかう時間を独占できる。
ロックダウンの要求ではたいてい補償が望まれているわけだが、弱った時に悪魔のささやきに耳をかたむかせないための一律な規制にも意味はある。個々の良心だけで自省しつづける精神的な負担は、状況によっては重すぎる。
もちろんそうした罰則を導入するならば、きちんと民主的なプロセスで決めて、最低限度の公平性を保証して、なおかつ状況にあわせた更新や検証も必要だ。それは利権誘導になりかねない補償政策でも変わらない。


それでも自由を求めて罰則の導入に反対する立場もあるだろう。ならばフジロックの開催は民間の自由意志であって政府の責任はないのだろうか。
ここで文化庁の支援事業について確認してみよう。読んでのとおり「積極的に公演等を開催」を求めて支援をうちだしており、2021年8月になっても継続している。
文化庁 令和2年度第3次補正予算事業 ARTS for the future!

新型コロナウィルスにより、文化芸術活動の自粛を余儀なくされた文化芸術関係団体において、感染対策を十分に実施した上で、積極的に公演等を開催し、文化芸術振興の幅広い担い手を巻き込みつつ、「新たな日常」ウイズコロナ時代における新しい文化芸術活動のイノベーションを図るとともに、活動の持続可能性の強化に資する取り組みを支援します。

これは冒頭で引用した記事でも示唆されていた。補償を求めるほど生活がきびしくなった人々へ、わざわざ日本政府が経済活動をおこなわせている責任は間違いなくあるのだ。
音楽事業に限らない。防疫と対立する経済活動ばかり支援する問題は、前首相時代から一貫している。お肉券のような消費推奨が批判されて撤回したかと思えば*1、Goto事業という移動支援事業は押しとおしている*2
普通に考えれば、対面や移動をしないことにインセンティブがあり、感染につながらない形態の仕事を推していく支援にするべきだろうに。


だからもし文化を守りたいなら、きちんと政府に向けて声をあげよう。彼らは市民に奉仕するべき存在だ。
すでにそれを実行した出演辞退者もいる。


今回、フジロック出演を辞退します。
直前の報告となってしまい、申し訳ありません。

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これだけで「さすがだ お前といると日本のロックがまだ死んではいないということを確信できる」と『+チック姉さん』の顔で評するのは早計だろう。

しかし、てらいなく五輪開会式につづいて君が代を歌ってしまうより、よほどロックなふるまいだとは感じられた。