「余命三年」や「桜井誠」を論拠として引用した問題*1で話題沸騰なJ・マーク・ラムザイヤー氏の慰安婦論文*2について、弁護士の堀新氏が感想記事をあげていた。
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堀氏の重要な指摘が、契約において正確な説明がされていて慰安婦側が理解していたという主張が、論文の論証結果ではなく前提ということ。その主張が崩れれば、論文そのものが机上の空論として崩れていくことになるだろう。
もちろん堀氏も指摘しているように、騙されて慰安婦にさせられたという資料はあるのだが、ラムザイヤー論文はそうした事例に言及しつつ考察に反映していないようだ*3。
しかし、それとは別に気になる部分があった。
女性が借金のかたに売られるような、一般的には社会問題と考えられることを、ラムザイヤー論文では別の見解をとっているらしい。
労働条件や世間の評判について女性側が「リスク」を負っていることを認めつつ、その補償として前払金が多額になったというのだ*4。
ラムザイヤー教授は、「借金をした事例もないわけではないが、それが前払金を払った理由ではない」と考えています。
なぜかといえば
(ア)売春以外の労働契約でも金を前借りした例がたくさんあって良さそうだが、そのような例は少なかった
(イ)前払金が売春で採用されたすべての女性に支払われていた
…からだというのです。(原論文2.2の2(b))
特に後者の(イ)の点は、ラムザイヤー教授の見解としては
「仮に前払金が借金なのだとすると、金銭に困ってお金を借りたかった女性やその親だけに前払金を貸し付けていたはずであり、前払金を受け取らない女性も多数いなければおかしいはずである。だが実際は、すべての女性に前払金を支払っていた。つまり前払金を支払ったのは、女性側が借金をしたかったからではなく、別な理由である」
ということで、上記のリスクに対応するため女性が交渉した結果、多額の前払金が支払われる契約になった(これが「別な理由」)と考えているようです。
ここで貧しい女性ばかりが対象だった可能性はないのかと堀氏は指摘している。
そもそも「売春以外の労働契約でも金を前借りした例がたくさんあって良さそうだが、そのような例は少なかった」とラムザイヤー氏が主張しているならば、債務奴隷という概念を無視している。高額な借金で拘束するという珍しくもない手法はなぜ考察されないのか。
そうでなくても、人身取引として前払金が親権者などにわたる場合は、女性は契約の主体になれていないだろう。たとえば奴隷の所有権をうつすための対価が必ず高額だったとして、その人身売買は奴隷自身が交渉した証拠になるのだろうか。
より根本的な疑問として、前払金が返済不要だった根拠がそもそも必要ではないだろうか。
前払金は少額でもいいから借金ではないかたちにしてほしいという交渉はなかったのか。対等な交渉がおこなわれて、それぞれ異なる契約結果になるなら、業者側に有利な契約も女性側に有利な契約もちらばらないのか。
ラムザイヤー理論であれば、たとえば「私は納得して売春するし、逃げる気もないので、高額な前払金は不要」と断る女性もいなければおかしいのではないか。
そもそも女性が望んで対等以上の交渉が常におこなわれた証拠が前払金なら、なぜそれが債務となって苦しむ事例があるのか。
女性側に売春婦になる決定権があって優位に交渉できたから、すべての高額前払金は女性が交渉した結果であり、その証拠として高額前払金がすべてに支払われた……もしこのようにラムザイヤー氏が主張するなら、一種の循環論法ではないだろうか。
*1:hokke-ookami.hatenablog.comなお、『余命三年時事日記』を引用しているのはこちらの論文。https://extranet.sioe.org/uploads/sioe2020/ramseyer.pdf
*2:http://chwe.net/ramseyer/ramseyer.pdf