法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

日本のBC級戦犯が有罪になったのは、そういうとこだぞ

捕虜にゴボウを食べさせたことが、戦後に虐待と誤解されて戦犯として裁かれたという都市伝説がある。
その謎を以前から追っているid:Apeman氏の問題意識を下記エントリにまとめた。
戦犯ゴボウ問題という都市伝説を疑うことは、BC級戦犯裁判は本当に不当だったのかと懐疑する意味がある - 法華狼の日記

問題となるのは、戦犯裁判の不当性を象徴するような逸話なのに、確認できる元ネタにおいては不当性が明確ではないということ。

BC級裁判で二等兵への死刑判決はあっても執行されていないことを根拠に、一般人が理不尽な目にあったという被害意識も過剰ではないか、という指摘をしている。

私も先日に見つけた戦犯ゴボウ問題にまつわる手記を読んだところ、不当性をうったえる文章に反して、むしろ裁判の妥当性を印象づけられる結果となった。


ここで、その手記を紹介したい。タイトルは『BC戦犯の実相―戦勝国への償いはわれわれ戦犯者が立派に果たしている』といい、近代文芸社*1から1996年に出版されている。

わずか62頁で文字は大きく情報量は少ない。終盤でオカルト的な精神世界の話がはじまって面食らったりもした。
しかし、いろいろな意味で興味深い内容ではあったのだ。


著者の曽我部武氏は1914年に生まれ、精神科の道を歩んだ医師だった。
海軍技師として、インドネシアのセレベス島*2のマカッサル市において、1943年から民生部で要職についたという。
1944年にセレベス第2の都市であるパレパレ市に移り、パレパレ県庁に赴任。衛生部長兼パレパレ病院長として医療に従事。現地の精神病の観察研究もおこなっていた。
郊外に敵性市民抑留所があったが、民生部法務部の管理官が管理しており「県は直接の責任はない」と聞かされ「安心」したという*3

当時私は抑留所と一線を画し、あまり関係しないように心がけたのである。
 抑留所には有能な医師、薬剤師、看護師が自治的に被抑留者等に治療を実施していた。もちろん医薬品、衛生材料は直接管理人を通じ民生部衛生部より供給していたのである。

しかしパレパレ県全体の衛生責任をもっていた著者は、診察治療はパレパレに滞在する日本人に対しておこなっていたものの、抑留所への勧告などもおこなっていたと書いている*4

 私はパレパレ県庁に赴任して早速抑留所内を巡視している。衛生状態も万全ではないが、他の俘虜収容所と比べてそう悪くはないものと判断していた。また、赤痢発生のときも管理者の案内で所内を見て回り、一般衛生状況や病棟などの状態を視察し、管理者に医薬品、衛生材料に不足があれば民生部衛生部に申し出てできるだけ十分に入手するように勧告したのである。

治療防疫は抑留所の医師に自治に任せていたと著者は主張して、赤痢発生時の視察も命令的な指導的な干渉はしていないと自認する。
しかし、関わっていないので責任を負っていないという自己弁護と、可能なかぎり助けるために関わったという自己弁護とで、微妙に矛盾している印象はある。


そして戦後のマカッサルでおこなわれたBC級裁判において、著者に対して3つの罪状があげられたという。その一つが戦犯ゴボウ問題だった*5

 私の罪状として抑留所の一般衛生不良に対する罪の他に、次の二項目が上げられていた。第一は被抑留者に木の根っ子である「ごぼう」を食べさせ、虐待したという。私は反論として「ごぼう」は日本の野菜であり、常に食卓に供しており、オランダの医師もこの点を知っていると思われる。したがって虐待の罪状には当たらない、と力説した。第二はパレパレ病院の医学書と貴重品(指輪、時計等)が紛失しているが、君の責任だという。しかし、私がパレパレ病院に赴任したのは十九年の夏頃で日本軍がこちらに進駐してから数年たっている。日本人が持ち出したか、あるいは原住民が持ち出したかさだかでない。私はこの点に関して何ら責任はないと反論したのである。

このように裁判で理不尽に責任が問われた原因として、上層部の思惑で転嫁されたのではないかと著者は疑いをかけている*6

 終戦後南セレベス民生部や海軍司令部では地方や下級軍役人に責任を負わせようと、秘密会議を催したという噂がある。また終戦後、戦勝国から抑留所の責任に対して報告書を日本側に要求した際、民生部が我々に無断で抑留所の直接責任はパレパレ県庁にあることを通知したのである。

しかし、上層部の責任逃れを考慮しても、あまりに著者自身に責任者としての意識が希薄だと思わざるをえない。
たしかに末期に赴任しただけでは紛失の原因もわからないだろうし、全責任が問われるべきでもないだろうが、その期間に応じた一定の責任なら問われてしかるべきだろう。紹介してきたように著者はそれなりの上級者であったし、ひとつの善意が誤解されただけで罪に問われたわけではない。
また、3つの罪状がどのように判決にむすびついたのか、著者は判決の詳細を記述しておらず、やはり判然としない。著者の説明が正しいとすればゴボウの位置づけには誤解があったのだろうが、その誤解が裁判で解けたか否かもわからない。
そもそも著者が具体的に語っている2項目は、全体からすれば小さな逸話にすぎないだろう。普通に考えれば、最初に短く言及しているだけの一般衛生不良こそ、裁判の行方を左右しそうな要点に思える。


さらに著者は裁判批判の根拠として、管理官として裁判にかけられた川尻二郎氏の文章を、別の『戦犯の実相』という書籍から引いている*7

事件発生地にいた為、責任を負わされた。事件は適性国一般市民抑留所における被抑留者に対する虐待事件に関する当該地区管理官としての監督責任であるが、その内容は抑留所における給与状態の不良、医療施設の不備、医薬品及び医療材料の不足、抑留所職員の暴行取扱い不良等に関し、県管理官として抑留所長と民生部長官との中間監督責任者でありながら、前記事情を知りまたは知り得べかりしに不拘適切な措置を講じえなかったというに至る。

これに対して川尻氏は、給与その他の不良は認めつつ、自身の赴任が短期間であることや、それでも医療が充足するよう努力していたことは具体例をあげて主張している。
しかして、一読して裁判の要点になりそうに思える職員の暴行については、驚くほど無責任な主張ですませている*8

また職員の暴行については全然感知せざる所である。

他の虐待についても否認しているが、暴行について具体的にふれているのは本当にこの文章ひとつだけなのだ。
同じく管理官として同書籍から文章が引かれている河村静観氏は、やはり職員の暴行の責任が問われながら、責任転嫁だけですませている*9

抑留所に対する糧食医療の給与不十分及び抑留所勤務職員の殴打虐待行為を阻止しなかったというので、その責任を問われたのであるが、該抑留所には専任の所長が居り、彼らは簡単な取り調べの後釈放された。私は抑留所の直接運営者たる所長に罪となるべき事件がないならば、その監督官たる私にも当然罪があるべき筈はないと硬く信じていた。

職員が虐待をおこなわないよう教育や指示を徹底したとか、何らかの問題がないか抑留者から聴取して管理に反映したとか、そうした抑止の形跡が川尻氏にも河村氏にもまったくない。
著者は両氏の引用の最後に、裁判の不当性が読者に了解されるだろうと自認し、自身の戦犯裁判の章を終えている*10

 以上のように両氏の言い分をお聞きになれば我等の戦争裁判が如何に不当、不正の裁判であったか了解されたことと思う。

著者たちは、仮にも衛生部長や管理官という立場にありながら、末端の現場以下の責任しか負わないという見解で一貫している。その見解を根拠として戦犯裁判の不当性を戦後まで主張していた。
正直な私の感想をいえば、「そういうとこだぞ」と思わざるをえなかった。


著者が裁判の不当性を主張することで、逆に裁判の妥当性を感じさせる場面は、他にもある。
パレパレ抑留所においては、戦後に証言できているように著者らは死刑にならなかった。著者は20年の有期刑、川尻氏と河村氏が15年の有期刑だったという*11
一方、マカッサルの俘虜収容所やマカッサル特警隊からは複数の死刑判決があり、執行された。ここでも末端よりも上層部が重い責任を問われて処刑されたことがわかる*12

 その罪状は「マカッサル特警隊員が抑留中の原住民の多量検挙取り調べ中における拷問の責任」であり中将一名、少尉一名、下士官八名、計十名が死刑。下士官四名が有期刑になっている。当時事件が多発し、特警隊員は寝食を忘れ容疑者を逮捕、取り調べたのである。戦時中であり、食うか食われるか、殺すか殺されるかであり、この間多少の行き過ぎはあったものと思う。オランダ通訳のヘブロック大尉は「マカッサル特警は殆どの事件を検挙しており、もし日本が戦争に勝っていれば金鵄勲章ものだ」と褒めていた。

特警隊は著者も暗に裁判の妥当性を認めているようだが、日本がしかけた戦争であることを忘れたような中立的な表現は首をかしげる
しかしそれよりも気になるのが、オランダ通訳の発言を、単純に褒め言葉と解釈していることだ。たとえばナチスドイツが勝利した世界ならば、レジスタンスを熱心に検挙した武装親衛隊は勲章をもらえただろうが、それは果たして人間として褒められた行為といえるだろうか。
当時の日本の立場から見て褒められるということは、普遍的な立場から見て褒められることと同一ではない。日本が敗北して約半世紀がたっていたのに、著者はその観点を持ちあわせていなかったのだ。


ちなみに、イギリスによる戦犯裁判を研究していた林博史氏は、残虐行為に対する裁きにおいて、上官にも不公平感が出る問題はあったことを指摘している*13

本人に自己裁量の余地のない、上官の命令を実行しただけの場合は、下級の兵を死刑にはしていないのである。カーニコバル事件での木村久夫上等兵は死刑になっているが、それは取り調べにあたって虐待して殺し、さらにウソの自白を引き出したという罪であった。

 ただすでに述べたように、命令者といっても現場にいた者が裁かれる傾向はあり、上級の命令者、あるいは明確に命令していないにしてもそうした状況に追いやった上級者が裁かれない傾向があったことは否定できない。

それを象徴するように最高責任者だった天皇は訴追そのものをまぬがれ、731部隊は米軍の思惑によって裁かれなかった。戦犯裁判で問われなかった罪は他にもさまざまあった。
著者もまた、先述したように上層部から責任転嫁された立場であったが、刑に服している間に上層部への憎しみを失っていった*14

民生部の戦勝国に差しだした書類にパレパレ県が抑留所の直接の責任者であると報告した事実を知り、一時は愕然として怒り、憎しみに燃えたものであり、且つまた戦勝国の我等戦犯容疑者に行った虐待拷問に対する恨み、反感心は強く身の置き所もなかったほどであったが、戦友が次々に死刑の判決を受けて刑場に連れていかれる姿を目の当たりにしてしだいに、恨み、怒り、悲しみの心は消滅していった。そして誰かが戦勝国の復讐の犠牲にならなければならないのだと自分に言い聞かせているうちに、冷静平穏な気持ちとなり「悟り」に近い境地になったのである。

かくして戦犯裁判に不公平感や不当性をおぼえながらも受忍するかたちで、戦後日本は再出発してしまった。


現場の罪を責任者は感知しないと主張する曽我部氏を、戦後半世紀の日本人は、どこまで遠い存在と考えることができるだろうか。
今の社会において、上級者が権限に応じた責任をどこまできちんと負っているといえるだろうか。
手記を読み終えて、そんなことも思うのだった。

*1:主に自費出版をおこなっている会社で、この手記もおそらく自費出版だろう。

*2:現在はスラウェシ島という呼称で知られているか。

*3:25頁。以下、特記しない頁番号は同書から引用。

*4:26頁。

*5:27頁。

*6:28~29頁。

*7:30頁。念のため、引用元は未確認で、文章も曽我部氏による引用の孫引きである。どちらかといえば曽我部氏の見解を示す資料として読みとってもらいたい。

*8:31頁。

*9:34頁。

*10:35頁。

*11:裁判長が抑留者であったことを著者らは問題視しつつ、その体験から著者らに直接の責任がないと裁判長が判断することを期待もしていた。28頁。

*12:41頁。引用時、フリガナを排した。

*13:BC級戦犯裁判 (岩波新書)』172、174頁。

*14:48頁。