ふたつの論点が主張されており、女性ばかりがサラダを取り分ける風習への問題提起について、反論するかたちになっている。
女だけど、サラダ取り分け禁止!とか言われるとほんとウザいし迷惑
論点1
最近の男子大学生〜30代半ばはそういうのに敏感だから、自分で取り分けるのがほとんどで、そういう人たちに対して女は取り分け禁止ですぅ!って恥ずかしくなる。それより上の世代にはリーチしないので無意味だし。
論点2
割と、若いうちから、世間的には高いキャリアを積めてるけど、なんだかんだで、お偉いさんに媚を売りたいときはある。そういうときの会食でサラダとりわけは絶好のチャンス。女の身体の見せ方を意識してれば、大半の男はジロジロ見てくれる。
それだって女の武器でしょ。大学教師くらいのアガリの人が、呑気に禁止ぃ!とか言うのは自由だけど、こちとらまだまだあがってないわけ。頼むから邪魔しないでくれ。本当にウザい。
論点1では、サラダを女性ばかりが取り分ける風習が衰退しているとされ、禁止しても無意味と主張されている。
論点2では、サラダを女性が取り分ける風習を禁止されるのは男性に媚びを売りたいのに邪魔と主張されている。
いったい風習は衰退しているのか現役なのか。
ひとつの主張に対して、禁止する対象が存在しないという批判と、禁止されては困るという批判を同時におこなおうとして、微妙な矛盾が生まれる事例のひとつに見える。
一貫性を読みとるならば、論点1でいうほど無意味ではないが衰退しつつあり、より邪魔されたくないという論点2の動機が強まっているといったところだろうか。
しかし論点2のような社会が存在するかぎり、それを禁止したい立場にとっては訴えつづける意味がある。少なくとも論点1でいうような無意味さはない。
また、「サラダ取り分け禁止委員会」という問題提起に対する他の批判は、女性の取り分けたい自由を奪うべきではないという主張が多かった印象がある。
媚びるための女の武器にしたいという主張は、男女の格差を前提とした行動だ。それは他の批判で主張されていた「自由」とは異なるものだろう。