法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ニュースの天才』

1914年に創刊された雑誌ニューリパブリックは、米国大統領の専用機にのせられるほど歴史と権威があった。
しかしスタッフは平均年齢26歳と若い。特にスティーブン・グラスという好青年が、社内外で人気を集めていた。
共和党スキャンダル記事の検証不足を乗りきったスティーブンは、大企業がハッカーを雇用した記事を書くが……


1998年に発覚した実話にもとづく2003年の米国映画。脚本家のビリー・レイが初監督をつとめた。

ニュースの天才 [DVD]

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最初の30分で仲間を指導したり母校で講演をするスティーブンの姿を、次の30分でスティーブンの転換点となる記事を、最後の30分で以前から確執のあった新編集長との戦いを見せる。
約1時間半の短めな尺で、実話のポイントとなる場面をピックアップして、メディアが印象を作りだす恐ろしさと、ひとりの若者の上昇と転落を描ききった。


もととなった実話には、さまざまな側面がある。たとえば、WEBで公開される新しいメディアが、コンピュータハッキングという得意ジャンルにおいて、古いメディアの過ちに気づいたところが転換点となっている。
しかしこの映画は、調子に乗ってスクープを連発していた若手記者と、そのコントロールに失敗しながら守るべきものを守ろうと葛藤する新人編集長の、ふたりのドラマにポイントをしぼっている。
ティーブンの過ちが社会に波及したところは見せない。紹介されるスティーブンの記事はスクープといっても、スキャンダラスな三面記事を新しい切り口で見せているだけ。DVD特典映像のドキュメンタリーによると政治家個人を攻撃する記事もあったが、スティーブン自身の説明では特に嫌っていたわけではないようだ。
過ちを発見したWEBメディアのフォーブスデジタルツールによる検証も、ほとんど見せない。電脳技術の専門誌がスクープを抜かれて、後追いで検証していく物語もそれはそれで楽しそうだが、この映画ではニューリパブリックの責任のタイムリミットを設定する位置づけだ。


映画の開始30分は、スティーブンという敏腕記者の物語として、新味はないが軽快に楽しませる。旧編集長が記事の検証不足を再検証して、スティーブンを守る場面が印象的だ。幼く不遜なハッカーは魅力的で、その集会も楽しげだ。
しかしハッカー記事におけるスティーブンの取材対象者が次々に行方をくらませていき、新編集長がスティーブンをつれて実地調査に行くあたりから、雰囲気が変わってくる。
証言者に会えないというスティーブンの釈明はその場しのぎで、かろうじて出てくる痕跡は薄っぺらいものばかり。シリコンバレーの巨大企業が、1998年とはいえ独自ドメインも持たず、テンプレートで作ったような公式サイトでスティーブンとの絶縁を宣言する*1。わたされた名刺は個人がプリントしたように安っぽい。
虚偽証言に騙されたというには、実地調査したはずの場所も記事の描写と整合性がない。それでもとりつくろうと奮闘するスティーブンに、いわゆる共感性羞恥な感覚におそわれる。


そう、この映画は、歴史ある雑誌のチェック体制が若き詐話師にハックされた実話にもとづいている。
そこで映画前半の、スティーブンの取材したはずの風景をそのまま再現する描写が効いている。この映画は宣伝やDVDの説明でこそ明記しているが、映画本編の前半まではスティーブンが捏造していることを隠している。捏造を知っている観客も、どこまでスティーブンが嘘をついているかを知らなければ、共和党スキャンダル記事の検証不足が許されたことで捏造にも手を染めたと感じさせる構成になっている。
ティーブンが本当に取材をして、実際に記事の光景を目撃している描写。それは事実の再現ではなく、取材ノートの映像化なのだが、それらしい風景で熱心に取材するスティーブンを見せられることで、印象がひきずられてしまう。ハッカー集会の舞台はよく見ると不自然なのだが、ロケは難しいだろうという予断や、物語の勢いで流されてしまう。
あらかじめ虚偽とにおわせていても、メディアが一度つくりだした印象の強さが、映画そのもので示されるという二重構造。騙されるのは観客も例外ではないとつきつける。


記者自身の誠実性に依存した取材ノート基準のチェック体制という問題や、捏造を許さない断固とした態度の必要性といった論点を描きながら、映画は静かに閉じられる。
自身の嘘でぬりかためられた虚像にすがろうとする若者と、反感を買いながら編集長の責任をまっとうしようとする男。好対照のドラマをとおして、報道のあるべき姿が描かれた。

*1:現在に見ると一般観客としても不自然さがあからさまだが、映画が公開された2003年ごろはどうだったろうか。