法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「LGBT」に「PZN」を付属させようとする人々が、欲求と実行を混乱させようとしたり、先行する言葉を隠している謎について

発端は、牧村朝子氏による下記の検証記事だった。
LGBTにペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアも加えるべき? 「やらせろ連帯」ではなく「やってしまわないための連帯」を - wezzy|ウェジー

LGBTばかり権利を主張するのはおかしい。P(ペドフィリア小児性愛)、Z(ズーフィリア/動物性愛)、N(ネクロフィリア/死体性愛)も加えて“LGBTPZN”とすべきだ」

 このような主張が、2018年4月2日現在、日本のインターネット上で見られます。

 本人の性のあり方にかかわらず、何を思っても自由。ただし、合意なく他者を巻き込むことはその人の自由の侵害である……LGBTがどうの、PZNがどうのではなく、実はそんなシンプルな話なのではないでしょうか。

 ですが「LGBTPZN」には、「LGBTばかり正義ヅラしてうざい」という不満のもと、「あいつらPZNを加えたら発狂しそう」「炎上させよう」という狙いで広められた経緯があります。

現時点でLGBTPZNは、ほぼ日本語のインターネット上でしか使われていないものだと言ってよいでしょう。

牧村氏の記事は、「LGBTPZN」が流布した経緯をくわしく検証しており、インターネットスラングの受容と需要について興味深いものがある。


上記記事に対して、「LGBTPZN」という言葉をもちいるひとり、id:okimochi-philia氏による下記エントリが書かれた。
LGBTPZNは何を破壊しているのか、あるいは「やってしまわないための連帯」の(不)可能性 - 自然法被害者の会
たとえば「気になる点」として、注記で下記のように主張している。

LGBTPZNは一人一派と言いますが、2016年末の時点の私のブログでLGBTPZNが「PZNの権利向上」や「LGBTをおとしめること」をねらったものでないことは明言しています。また、複数のLGBTPZN理論家の個人ブログのどこを読んでもそんな主張は出てこないはずです。

しかし本文を読み進めていくと、「PZNの権利向上」でなくても、「LGBTPZNは正常と異常とのあいだに設けられたある一つの区切りを破壊する」や「線引きを"ずらした"だけ」を意図していることは明言されている。
仮に、LGBTがPZNより権利が認められているとして、前者と後者を結合するよううながすことは、「PZNの権利向上」や「LGBTをおとしめること」をねらったものといえるだろう。


また、牧村氏は記事で「何を思っても自由。ただし、合意なく他者を巻き込むことはその人の自由の侵害」という線引きを語っている。
しかしokimochi-philia氏は、心情と実行を混同するような文章をくりかえして、どちらが社会的に正しくないと位置づけているのか、主張が混乱している。

薬物、殺人、自傷、どんなに抑止力を持ち出しても「やってしまう」人が存在するのはなぜだか考えたことがありますか。力で抑えつけてすべてを済ませるには人の意志はあまりにも厄介すぎるからです。

LGBTの歴史の中で、マジョリティの側がコンバージョンセラピーの名のもとに行っていた「治療」がどんなに屈辱的なものだったかをあなたは知っているはずです。PZNは、たまたまそれが社会的に正しくないというだけで、自身のアイデンティティを差し出さなくてはならない*9。

*9:念のため、性的な行為の加害性を矮小化する意図はまったくありません。ただ、当事者の人格にとって「正しさ」というのは屈辱をやわらげるために何の役にも立たないということです。

コンバージョンセラピーとは、同性愛者を異性愛者へ変えようとするものだった。他者への加害を止めるものではなかった。
異性愛者でも合意なく他者を巻き込むならば罪になるべきだろうし、小児性愛者でも虚構に耽溺するだけならば罪になるべきではあるまい*1
他者への加害が止められることと、自身の欲求が認められないこと、okimochi-philia氏にとって「屈辱」なのはどちらなのか。


なお中段では、okimochi-philia氏も「LGBTとPZNの壁、正常と異常の壁を取り払う」ことを「行為と内心の区別さえついていればLGBTからのごく自然な結論」とも語っている。
しかし前段で行為と内心がわかちがたいことを主張しつづけたこととの整合性は配慮されず、後段でも下記のようにまとめている。

「やってしまわないための連帯」の可能性は夢物語、あるいはあけすけな権力装置の化身なのでした。「やってしまう」「やってしまわない」の審判には必ず矛盾と時代の限界がつきまとうのでした。

つまるところokimochi-philia氏のエントリは、他者の権利を侵犯しうる行為を止められないことと、他者の権利を侵犯しうる欲求をもつことを混同させることで成立している。
それも前者と後者の線引きの難しさを主張するためというには、あまりに文章が混乱している。このような書き手しかいないのであれば、「LGBTPZN」が日本語圏のWEBでしか流通しないのも当然だろう。


最後に、そもそも最初に見かけた下記エントリからして、私にはokimochi-philia氏が不誠実に見えていた。
LGBTPZNの現在地 - 自然法被害者の会

LGBTPZNという概念/運動が、主に日本のTwitterを中心に普及をはじめてからおおよそ2ヶ月がたつ。

LGBTPZNが周知されていく過程で、支持派であれ反対派であれ、その受容形態は面白いほど多様だった。まずは、そのそれぞれを分析することから始めよう。

当初から多かったのは、LGBTにPZNをつけくわえたことで本質的な問題は消えていない、つけ加えではキリがないという指摘だった。

ここでokimochi-philia氏は「クィア」には言及しつつ、「LGBT」にとどまらない性的少数者をふくめる言葉として「LGBTQ」や「LGBTs」が先行することを隠している*2
ただ無知により記述しなかったわけではないことは、エントリの数ヶ月前にツイッターで「LGBTQ」に言及していたことから明らかだ。

意図しているのかはわからないが、okimochi-philia氏は日本語圏のWEBで言葉の意味の攪乱をしているだけで、牧村氏ほど真面目に言葉にむきあっているようには見えない。
ちなみにokimochi-philia氏は、下記のようなツイートもしている。冗談のつもりかもしれないが、やはりあまり信頼できる語り手ではなさそうだ。

*1:念のため、ここでの「罪」は法律の規範と同一ではない。性愛にかぎらず、現行法を正しさの絶対的な基準と見なすべきではない。

*2:逆に「LGB」と「T」が違うという議論があることや、それでもセットで語る意味があるという、「LGBT」内での線引きのような先行議論にもふれていない。