法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ハドソン川の奇跡』

サレンバーガー機長は、旅客機が都市に墜落する幻覚に苦しんでいた。河川への奇跡的な不時着を成功させた機長だが、英雄として市民にたたえられながらも、国家運輸安全委員会から疑惑が向けられていたのだ……


日本でも報じられた2009年の美談にもとづく、2016年の米国映画。クリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演。
映画『ハドソン川の奇跡』オフィシャルサイト
もととなった実話は、わかりやすい美談でありつつ、長編映画にするには内容が単純すぎる。離陸直後に1分単位でバードストライクの発生からエンジン停止、不時着までおこなわれていて、不時着後の救助終了をふくめても約1時間しかなく、リアルタイムで描いても時間があまる。
SNSが発達した時代に都市部で起きた事故であり、一般人が撮影した不時着映像も知られていて、意外性を演出することも難しい。


ゆえに映画が始まった時点で奇跡があったことは明かされており、それでも機長は葛藤している。そこから事故対応として不時着が妥当だったかを問われる展開がはじまる。
実際は左エンジンが稼働可能だったという情報が記録されていたこと。エンジンが動かなくても滑空して着陸できる距離の空港が複数あったこと……
ここから映画は、美談の裏側に隠された複雑な背景を描いたり、報道によって美談が実態より誇張されたことが示されたりする……かと思っていた。


たしかに機長は事故の記憶がフラッシュバックすることに苦しみ、市民からの賞賛を素直に受けとることもできないでいた。それは映画の中盤で事故から救助までを回想しても変わらなかった。
しかし事故調査の公聴会において、テストパイロットが事故からの空港着陸シミュレーションを成功させた後、機長と副機長が指摘する。準備してない事故が起きて、心理として直後に空港へ向かえるはずがない、と。
その指摘を受けいれてシミュレーションをふたたびおこなうと、事故から復旧まで35秒をおいたテストパイロットは、空港にたどりつくことができなかった。
テストパイロットがシミュレーションを放棄して航空機が建物にぶつかるへまかせた一方、実際の音声にもとづいて再現された機長たちは最後まで最善をつくしていく……


つまりこの映画は、データの数字で判断したライバルチームに対して、人間的で経験もあるベテランチームが判断の正しさを示すという構図の物語だったのだ。不正解と対比することで、どこまでが正解だったか、そしてその選択をした凄味がわかる。
そう理解して全体を見ると、1時間半を少し超えた尺に、描写の無駄はどこにもない。機長に向けられた主な疑惑に対して、中盤の回想を伏線として、機長の行動が必然的であったことを示していく。
膨大なチェックリストを読みあげる手続きがあり、空港が受けいれられるか管制官とやりとりする必要があり、事故直後から空港へ向かえたわけがない。インスタントラーメンを作る3分間に、湯を入れたりスープを溶かす時間を足さなければならないようなものだ*1
それどころか機長はチェックリストを飛ばして補助エンジンを始動していた。副機長や管制官とのやりとりも間断なくつづけられて、一瞬も手を抜く場面がないとわかる。エンジンを再始動するこころみもくりかえし描写され、左エンジンを使わなかったという批判が的外れだったと解説されずとも実感できる。


いったん美談を懐疑することで、あざとさを消し去り、いっそう緻密で強固な美談を再構築できる。
本当によくできたプロパガンダは、そうと受け手が理解していたとしても、きちんと楽しませる。
機長と市民をたたえる娯楽作品として、素直に楽しめるエンターテイメントとして完成されていた。

*1:もちろんこの国家運輸安全委員会のありようは、あくまで映画のための誇張ではあるが。