法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

被害者国の文学者の防衛機制〜朴裕河氏の従軍慰安婦論と栗本薫氏の拉致被害者論〜

「道義的責任」のインチキ - Apeman’s diary

性暴力被害者に金を渡したあとで「お前は同意しただろ」とか「お前もまんざらじゃなかっただろ」*2と言い放つなら、それって「道義的責任をとった」と言えるのでしょうか? いや、むしろ「金で口封じをしようとした」と言われるに違いありません。

 *2:驚くべきことに、いまやフェミニストと呼ばれる人びとがこのような主張を含む書籍を激賞していますが。


よく批判されているように、朴裕河氏は朝鮮人慰安婦を日本軍の「同志的関係」と位置づけ、そこには兵士を愛する記憶もあったと主張している。
「慰安婦」問題をめぐる報道を再検証する会: 『帝国の慰安婦』における「性奴隷」概念について

何よりも、「性奴隷」とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面にのみ注目して、「被害者」としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある。他者が望む記憶だけを持たせれば、それはある意味、従属を強いることになる。(143ページ)

152ページでも同様の主張が繰り返されている。一見すると被害者の主体性に配慮したもっともらしい主張に思えるこの議論が無視しているのは、「性奴隷」というのが被害者に貼られたレッテルではなく、日本軍「慰安所」制度の人権侵害性を告発するための概念だ、という点である。

こうした被害者もつ感覚の多様性をうったえる朴裕河氏の文章を読んで、ふと思いだす文章がある。
中島梓名義で評論活動もおこなっていた小説家、栗本薫氏がインターネットで2002年9月に公表した日記だ。
山本弘のSF秘密基地BLOG:フィクションにおける嘘はどこまで許される?(後編)

44歳で生存が認められた蓮池薫さん、大学が「復学を認めた」そうですけれども、いま日本に帰って44歳で大学生に戻っても、もう、蓮池さんには「あたりまえの日本の平凡な大学生」としての青春は戻ってこない、それは不当に奪われたのですが、そのかわりに蓮池さんは「拉致された人」としてのたぐいまれな悲劇的な運命を20年以上も生きてくることができたわけで、 それは「平凡に大学を卒業して平凡に就職して平凡なサラリーマン」になることにくらべてそんなに悲劇的なことでしょうか。

 これを読んだ瞬間、同じ作家として愕然となった。
 この人は現実に存在する拉致被害者を、小説の登場人物のように考えている!

一国家が強制した苦しい環境において、その強制は批判するという留保をつけつつ、被害者は苦しみだけをおぼえたわけではないと主張する。
なるほど、どのような苦しみをあたえられた被害者でも主観的な幸せをおぼえることはある。それは苦しみだけを感じつづけて心が壊れないようにする、いわゆる防衛機制というものかもしれない。


そして被害者の苦しみに共感することが苦しい、そんな心の防衛機制ととらえれば、朴裕河氏と栗本薫氏が上記のような感覚をもつことは不思議ではない。
念のため、被害者が苦痛以外の感覚をもちうるからといって、それを第三者が安易に忖度して公表していいとは思わない。被害の多様性を主張しながら観念的な想定にとどまり、実際の被害者の声を抑圧することもある。被害者本人が思うこと、公表すること、第三者が忖度すること、その忖度を公表すること、といった主体や局面でも異なるだろう。朴裕河氏と栗本薫氏のあいだにも、著作として商業出版したか、個人的にインターネットで公表したか、等々の違いはある。
それでも現在の韓国から見た朴裕河氏は、当時の日本で批判された栗本薫氏と似ている。そう思えば両氏の精神を特異視する必要はないし、その主張を特別視する必要もない。そのうえで良し悪しを論評することもできるはずだ。