法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『Charlotte』の底抜け倫理観に腰が抜けた

思春期にのみさまざまな超能力があらわれる世界。主人公は自分ひとりが超能力に目ざめたと思って悪用するが、とある学園の少年少女に拘束され、他の能力者を保護する活動への参加を強要される。
TVアニメ「Charlotte(シャーロット)」公式サイト
Angel Beats!』につづく麻枝准原作脚本、P.A.WORKS制作によるオリジナルTVアニメ。GYAO!で最終回まで視聴した。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00548/v12165/
良し悪しという意味で、原作と制作会社が共通する『Angel Beats!』を思い出させる作品だった。いかにもP.A.WORKS制作らしく、全13話をとおしてキャラクター作画が整って安定しており、たまのアクションや風景にも隙はない。演出も気にかかるほど凡庸というわけではない。それゆえ物語のどうしようもなさばかり浮きあがる。


主人公が超能力を活用してセコく優等生を演じる第1話だけなら、娯楽として悪くないものだと思っていた。ただ、その娯楽性からまず崩れていったが。
2015年夏TVアニメ各作品の序盤について簡単な感想 - 法華狼の日記

ちょっとした超能力を完全に私利私欲のため主人公が活用する第1話は、能力の応用と失敗にバラエティがあって楽しいし、ダメなことをちゃんとダメと描いているから楽しめた。しかし2話になってシリアス描写が多くなると、ギャグ描写との整合性が気になるばかり。シリアスを構成する作品世界を守りながらギャグを展開することができないのか。

多くのキャラクターが共感できないどころか理解することすら難しい言動をとり、それが笑えないギャグを強要されているようでストレスがたまる*1
妹の甘すぎる料理に閉口する主人公が、やんわり甘さを抑えてもらおうとすらしない*2。超能力を安易につかってはならない世界観なのに、ブレーキのきかない超加速を昼食の争奪のためだけに屋内で多用する。顔を前髪で隠すためだけに、頭から水をかぶってつかう超能力という嘘をつきつづける*3
どれもギャグに伏線をおりこむ手法ではあるのだが、それゆえその場かぎりのつまらないギャグと思って目をつぶることが難しい。


さらに、第1話では主人公の小悪党ぶりを描いていたから気にならなかったが、徐々に主人公が善良であるかのように表現していったため、倫理観のおかしさが気にかかる。あえて視野のせまい範囲を切りとったのだという解釈は、物語の舞台を広げることで通用しなくなった。
たとえば、超能力を利用しようとする存在として、漠然と「科学者」とだけ名指しされる。超能力を利用する犯罪組織が電話で脅迫してきた時、その口調だけで外国人と判断する*4
能力者を利用したり迫害する問題を描きながら、敵対者は浅い判断でカテゴリにくくってしまう。


そして物語の結論において、主人公が世界全体の超能力者から能力をうばっていくことを決める。心身の障碍をも個性としてとらえようとする現代において、悪人にねらわれるというだけで他人の能力を勝手に奪っていく結論には驚かされた。超能力を他人の治療に活用して社会に受けいれられている能力者すら例外ではない。
かといって、他人の意思を無視して暴力的な救済を選ぼうとする傲慢な英雄になったわけでもない。主人公は最終回までに時間をさかのぼる能力を手に入れていた。その能力をつかって全世界の救済を目指そうとはしない。全世界は難しくとも、手にとどく範囲で時間をやりなおすことはできたのに、起きたことは大切だとして。時間をさかのぼって妹の命を救ったりしたことを忘れたかのように。
悲劇を悲劇のまま固定することで感動させ、社会に個性を埋没させることを肯定する。これがディストピア作品における皮肉な結末ならば理解するが、主人公個人の感動的な選択のように描写されても困惑するだけ。

*1:同時期に放映された『青春×機関銃』もかなりのものだった。

*2:もちろん甘すぎる料理をするようになった原因はあるが、その原因を思い出して主人公が感動する前に何も意見しない理由にはならない。妹の善意をむげにできない心情はわかるとしても、全否定しないつたえかたを試みない理由にはならない。

*3:あわててついた嘘を何度もくりかえさざるをえなくなったなら理解できるが、顔を隠す他の手段を選べる状況でわざわざそうする。

*4:しかも、その時点で外国人と気づく物語上の意味がまったくない。最終回に世界中の超能力者を救おうとする展開があるが、伏線として必須というわけではない。どうしても外国組織の存在に気づかせたかったとしても、戦闘した後などで調べれば最終回までには間にあう。