法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

炭鉱に朝鮮人差別がなかったという産経記事が、方城炭鉱の事務員の証言を使っていて、見えている景色のちがいに頭をかかえた

今回の世界遺産登録とは異なる炭鉱だが、証言として興味深いものではある。
【炭鉱物語】韓国“被害”強調に「出身地『差別』なかった」元女性炭鉱社員語る(1/3ページ) - 産経WEST

 田中さんは「過酷な労働環境だった分、実入りも多かった。朝鮮半島出身者も日本人に負けじと働いて稼いでおり、私の知る限り出身地による差別なんてなかった」と証言する。

 社宅の間取りは、4畳半と6畳をひとまわり大きくした二間だった。半島出身者も日本人も同じ待遇で入居していた。

採掘量の減少につながるため、会社側は「爆発事故には最も神経を尖らせ、安全対策を徹底していた」と話す。

 「韓国政府は、日本が世界遺産に登録申請したら文句を言う。事故や病気による犠牲者は半島出身者だけではない。方城炭鉱には差別のない活気に満ちあふれた生活もあった。韓国政府はそうした面にも目を向けてほしい」

ひとつの証言として興味深いものではある。後述するように、証言者の立場からは自然な内容であり、虚偽をのべているとは思わない。


しかし方城炭鉱は大事故を起こしたことで知られている。産経記事の末尾にも明記してある。

大正3年12月、日本史上最悪の炭鉱爆発事故が発生し、671人の犠牲者(会社発表)を数える大惨事が起きた。福岡県の調べだと、昭和19年1月現在、計3217人の朝鮮半島出身者が「徴用」「募集」の名の下で働いた。

その方城炭鉱事故をまとめた福岡県の地方広報誌『広報ふくち』に、このようなくだりがある*1
http://www.town.fukuchi.lg.jp/pdf/kouhou/071201/071201.pdf

坑夫の葬儀に比べ、炭鉱職員の社葬は盛大なものでした。花輪が職員住宅街のあった西購売(現購売バス停付近)から事務所まで連なったといいます。この坂は職員の高給取りを指して「百円坂」と呼ばれてました。坑夫が休みなしに働いて月給20円ほどの時代でした。

つまるところ、日本人であれ朝鮮人であれ現場作業員は差別されていたのだ。あくまで事務員であった証言者から差別が見えなくてもおかしくない。
そして朝鮮人は差別的な現場に追いやられやすいという差別があった。具体的な政策として、方城炭鉱は釧路炭鉱からの強制配転が多く、朝鮮半島から重ねての移動となっていた。
三菱方城炭鉱に強制配転されたアイヌ民族

 1944年(昭和19年)8月11日、日本政府は、閣議で「樺太及釧路ニオケル炭鉱勤労者、資材等ノ急速転換 実施要綱」を決定した。
 その内、釧路炭田から強制配転されたのは日本人3140人、朝鮮人2900人であった。残酷だったのは2900人の朝鮮人であったこと を付け加えておかねばならない。彼らは、朝鮮から釧路炭田に一度目の強制連行をうけ、またこのとき二度目の強制連行をうけた のである。

福岡県直方南高等女学校を卒業し、経理担当の事務をおこなっていた日本人の証言者は、最初から住む世界が違っていたのだ。


また、強制連行の否定論がはびこる昨今だが、さすがに「徴用」の強制性まで否定する人は少ないだろう。しかし産経記事は下記のような証言をそのままつたえる。

 社宅に住む半島出身者の中には家族連れもいたといい、田中さんは「彼らが強制連行されたと聞いたことなどなかった。何よりも家族連れで強制連行された人なんていたのだろうか」と語り、韓国政府の一方的な言い分に首をひねる。

「徴用」された人々がいたのだから、その被害が見えなかったという証言は、せまい視野しか持っていなかったということ。
そもそも「強制連行」とは基本的に戦後の歴史用語であり、当時に聞いていなくても不思議ではない。しかも歴史学において「強制連行」は国家総動員法後にかぎらず、官斡旋や業者の詐欺的募集もふくまれていた。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11708895.html
労働者を集めるため段階的に強制性を増していったのであり、ゆえに強制連行された時期によって温度差はあった。


最後に、以前から活動していた団体「軍艦島世界遺産にする会」の公式サイトに、くわしい炭鉱夫の労働状況が書かれている*2
http://www.gunkanjima-wh.com/unadata/gaisetu9.htm

社史の記述では、昭和16年12月における端島の在籍労働者数1826名中、坑内夫は1420名とあり、坑内夫の殆どが朝鮮人に置き換えられたと考えれば少なくとも1000名は朝鮮人強制労働者であったと考えられます。
 彼らの入坑は二交代制、1日12時間以上、採炭現場への往復時間を入れると十数時間も拘束られる極限的な重労働であったということです。三交代制になったのは戦後になってからのことです。因みに、端島で機械化が最も進んだ時期でも成し得なかった史上最高の採炭数はこの時期に記録されたものです。

このように歴史を記憶にとどめる遺産となるなら、今回の登録も無駄ではないだろう。
あるいは、史実を忘却して虚像を賛美したいのであれば、むしろ現実の遺構は世界から隠すべきだ。

*1:ノンブル番号で7頁。引用時、フリガナを排した。

*2:ちなみに今回の世界遺産登録に対しては、トップページに「本日様々な誹謗中傷なメールが飛んできてます。日韓協議をしたのは軍艦島世界遺産にする会ではない」という状況が書かれていたり、他の産業遺構とあわせて登録するための国史跡指定に「この島が翻弄されてきた歴史のさまざまな側面にもきちんと向き合っていくものであってほしいと願うのである」と語っていたり、いろいろ日本政府との温度差を感じる。