法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ウォールストリート・ダウン』

難病の妻をかかえた警備員が、治療費を捻出するための投機に失敗。さらに金融機関が約束をたがえて元金まで消滅し、支払限度額を超えたため医療保険はしはらわれず、銀行は高額の利子を要求する。友人の助けを借り、弁護士にも依頼したが連絡がゆきとどかず、不正に対して検察も動こうとはせず、全てを失ってしまった。
いくつかの出来事に追いつめられた警備員は、やがてウォール街への無差別な攻撃を始める。それは個人的な復讐でありながら、英雄的な行為のようでもあった。


2013年のカナダ映画。米国の社会状況を娯楽作品として99分の尺で過不足なくまとめた。GYAO!で4月23日まで無料配信。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00867/v00884/
ラズベリー賞の常連として知られるウーヴェ・ボル監督のオリジナル作品ながら、米国の映画ファンからの評価が驚くほど高い。そこで少し期待しながら視聴してみたところ、納得できるだけの完成度はあった。同じくボル作品としては評価の高い『ダルフール・ウォー 熱砂の虐殺』*1が拙さが巧さへ奇跡的に昇華されていたことに対して、こちらは無駄のない佳作として素直に楽しめる。
もちろん作品の背景が自明に理解されている米国内で評価が高くても、日本の観客が同じくらい共感することは難しいだろう。ウォール街への強い憎悪や、医療費の金銭的な負担の大きさ、自警団の延長にあるヒーロー像といった知識は持っていても、感覚を共有できるほどではない。しかし社会状況は充分に説明されているし、主人公の心情を念入りに描きこんでいて、普遍的に楽しめる作品になっていた。
映像も意外と悪くない。不満は手ぶれの気になる撮影くらいで、カット割りのテンポも良く、時間経過で多用されるジャンプショットは素直にいい。作品でポイントとなる妻の死や、狙撃シーンの弾着には、かなりリアルで没入感をそこなわない。
以下、細かな展開にふれながら感想を書いていく。最後にはクライマックスのネタバレもするが、その見事さは実際に見てほしいところ。


物語は、主人公が全てを失っていく前半と、社会への復讐を始める後半という、かなりシンプルな構成ではある。しかし主人公が追いつめられていく前半も、それ単独で見られるつくりになっている。不幸の連鎖だけで物語をつむがず、さまざまな助力や善意も描かれて、実直な主人公の奮闘劇として先が気になる。
まず前を向いて生きていこうとする妻との関係がいい。一見した容態が深刻でないからこそ、長く病気とつきあわなければならない未来の重さを予感させる。投機になじみがない日本の観客であっても、手堅いとされた債券に手を出してしまう主人公の気持ちが理解できる。そして子供が産めない体と理解しあっているからこそ、たがいに求めあう行為が、純粋に愛しあっていると感じられる。
友人の同僚や警察官とのホモソーシャルな関係もいい。男4人で会食して、ホームレスや交通違反者を検挙したばかりだと語り、本当の悪は別にいると愚痴りあい、米国の現状を説明していく。そして家族の浮気ネタで笑いあったかと思えば、ドミニク・パーセル演じる主人公の献身的な愛を称賛したり。しかも友人は古典的な男性優位主義者ばかりというわけではない。エドワード・ファーロング演じる同僚は、身寄りも家族もないからといって、主人公が弁護士を依頼するための1万ドルをあげたりする。

セクシャルマイノリティだとかいった説明は特にないが、友人を助けることに理由はいらないという力強い描写は気持ちいい。同時に、あくまで助力にとどまる気弱な男という性格づけがしっかりしていて、友人役という立場を超えて物語を壊したりはしない。


もちろん最初に説明したように、主人公は全てを失う。愛する主人公の負担とならないよう死を選ぶ妻は、現在の日本でも他人事ではない。
ここで興味深いのが教会での説法だ。旧約聖書のサムエル記から引用し、敵を打ち倒す力を神が与えてくれたと語り、ここから始まる復讐劇の後押しとなる。そして「道を踏み外さぬように――歩幅を広げてくださった」と神をたたえる。別の翻訳では「あなたはわたしが歩く広い場所を与えられたので、わたしの足はすべらなかった」*2となる部分だ。この場面を見て、これから主人公が道を踏み外していくと逆説的に表現しているように感じられた*3
それでも、主人公は即座に行動を始めるわけではない。生活が荒れながらも復讐心は内面にとどめようとし、決定的に道を踏み外すのは問いつめた相手を結果的に事故死させてしまってからだ。やがて軽快なBGMにのせて復讐を計画して実行するが、途中で友人たちと4人で会食して、自分が連続殺人犯とにおわせたりもする。ここで主人公が葛藤を見せているのがクライマックスで意外な展開を見せる。
そして始まる銃撃描写はよくできていて、予算を抑えながらも舞台設定が絶妙で、気になる粗がない。前半で使われたオフィスのセットが盛大に破壊されていくカタルシスはなかなかのものだ。やがてウォール街の狙撃で無関係なビジネスマンも標的にするが、それなりに下調べして選んでいた描写もあり、混乱を起こすことで次の計画に進むという理由もある。あるいは個人的な怨恨関係からたどられないようにという計算もあるだろう。


そうして混乱を引きおこした主人公は、目的の部屋にたどりつき、ついに投機を持ちかけてきた責任者と対峙する。ここから結末までの展開は見事なもので、トリックとドラマが密接にからんでいた。
まず主人公が金融業者の席に座り、相手を客の席に座らせる。この逆転の構図で、初めて経済人が主人公へ本音を語る。「経済支配者はビジネスのために――ネイティブアメリカンを殺し奴隷を輸入した」と。それがアメリカンヒーローだ、資本主義は競争だ、と。

台詞だけなら、そこまで珍しい内容ではない。しかし『ダルフール・ウォー 熱砂の虐殺』の武装勢力がクライマックスで初めて心情をあらわした時のように、ここで初めて心情をあらわにするからこそ、落差が意外性をもって印象に残る。
ここで演説を聞いた主人公は、「競争」を持ちかける。ひとつの銃を中央に置き、3秒後に奪いあおうというのだ。SWATが部屋にせまってくる中で、緊迫した決闘が始まるかと思った瞬間、相手は2秒で銃をつかみとる。主人公へ銃をつきつけ、手段はどうあれ勝利すればいいとうそぶく。
しかし引き金をひいても弾は出ず、銃を持った業者は誤認されて、襲撃犯あつかいされてSWATに射殺された。トリックとしてはシンプルだが、これまで描かれた主人公の行動と小道具ひとつひとつが意味をなし、意外性と納得感が両立していた。
なおかつ、主人公は業者にも選択肢を与えたということ、そして業者を殺したのが主人公ではなくSWATであること、そのふたつがドラマとしても面白い。そもそも主人公が復讐者にならざるをえなかったのは、警察や検察が無力だったためだ。この展開は、巨悪を裁く大義と武力が、主人公から警察へ返されたという構図になっている。ゆえに主人公は結末で、これからも殺しつづけると独白しながら、それは政治家や検察が義務をおこたった時の代わりだと補足する。


きちんと主人公の物語は終わらせつつ、社会全体の問題は観客へと投げ返される。時事問題をあつかった娯楽作品の、あるべき姿のひとつだろう。
つくづく不思議なのは、これほど誠実な作品をしあげられるウーヴェ・ボル監督が、どうしてゲームの映画化では原作ファンの憎悪をあおるのかということ。近年になって監督として腕があがったのかと思いきや、ゲーム原作の新作映画はやっぱり評判が良くないらしい。

*1:感想はこちら。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20140317/1395091858

*2:http://ja.wikisource.org/wiki/サムエル記下(口語訳)/#22:36

*3:あくまで非キリスト教徒の解釈なので、聖書の文脈からすれば全く的外れという可能性も高い。