法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ダルフール・ウォー 熱砂の虐殺』

ダルフール紛争を題材とした、2009年のドイツ映画。
停戦を監視しているアフリカ連合AUの警備隊に道案内をたのみ、小さな村での取材活動を許されたジャーナリスト6人。その無力感にさいなまれた顛末を描く。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00938/v00171/
GYAO!で4月7日まで無料配信中。星の数が少なめなのは、あまりに救いのない展開に賛否両論なため。


ラズベリー賞ノミネートの常連で、受賞経験も2度あるウーヴェ・ボル監督。その最低ぶりは題材にした映画まで存在するほどだ*1。安っぽいアクションやホラーばかり撮っているので、しょっちゅうGYAO!で配信されては微妙な評価を受けている。その監督が手がけたオリジナル作品ながら、異様なほど評判がいい。
視聴すると、たしかにラズベリー賞の常連らしい作風が全体にただよっている。手持ちカメラのゆれつづける映像はひどいし、たいして意味のないようなやりとりが長々とつづく。人物配置や物語展開もゆるく、無駄だらけに見える。
しかしその歪んだ歯車が奇跡のようにかみあって、効果的な演出と展開に昇華されていた。ところどころで正面から光っている描写もある。結論にいたっては、同じように近年の紛争を描いて著名な映画『ブラックホークダウン』より、誠実かつ巧妙だと感じられた。
以下、感想で展開に細かくふれていく。


1幕目の取材部分と2幕目の虐殺部分は、あまり工夫なくカットを重ねているだけ。撮影や台詞に目を引くところもなく、それぞれ単独では良くない。手持ちカメラなので映像が見づらいし、顔面のクローズアップがつづいて画面がせまくるしい。
特に前半分をしめる1幕目は、もっと短くできるだろう。しかし逆に未編集の素材集らしくもあった。さらに広大なロケ地の良さと、広々としたオープンセット、再現されたアフリカ現地の風習、俳優の熱演に助けられて、それなりに見ていられる。
さらに、この作品の細かい台詞は俳優まかせの即興だそうだ。そしてエキストラは本物のダルフール難民という。編集や演出が入っているとはいえ、劇映画でありつつも真実の声が記録された場面でもあるわけだ。
映画|ダルフール・ウォー 熱砂の虐殺|Attack on Darfur :: ホラーSHOX [呪]

映画に出てくる村人のみなさんは、ダルフールの難民のひとたちが招待され、エキストラを演じたそうな。

脚本ナシの即興演技(improvisation)でつくられたそうで、つまり監督さんが俳優たちにシーンの意味を説明し、俳優さんはその考えを汲み取り、咀嚼し、自分なりの台詞を考えて演技表現するというヤツ


そして2幕目、取材が終わって帰還しようとした直後のこと。アラブ民兵組織ジャンジャウィードが村へ向かっていることに6人が気づき、どうするべきか話しあう。
ここまではジャーナリスト個々の人格がはっきりせず、無駄に登場人物が多くて使いきれていないと感じた。しかし村へ戻るか逃げるか、なかなか目的の定まらない議論がはじまった時、6人という多すぎる人数が烏合の衆を表現するため必要な人数だとわかった。
勢いで村に戻った6人とAU警備隊。目前ではじまっている虐殺を止めるどころか、ドキュメンタリーの素材を撮影することも、ジャンジャウィード側の主張をインタビューすることすら拒絶される。はてしなくハードルを下げていくのに、まったく交渉が通じない無力感。さらに無理やり村人に押しつけられた赤子も見つかり、とりあげられて地面に叩きつけられる。


ジャーナリストと警備隊が遠くへ逃げ去った後、虐殺がはじまる。第三者の誰もが目撃することができない。フェイクドキュメンタリーではなく、6人もいながら素材を入手できないからこそ、まなざすことすらできないジャーナリストの無力さが印象に残る。
また、先述したようにカメラがゆれつづけ、細かくカットが割られて状況がわかりにくいのだが、この題材においては効果がある。これがアクション映画やホラー映画なら下手な編集と感じるだけ。しかし現在進行形の虐殺や暴行を題材にした映画においては、見世物になりそうでならない絶妙な節度を生んでいる。
それに映っている状況はわかりにくくとも、誰がどこで何をしているかは意外と理解できる。逃げまわる無名の男を中心にして、かかわった人々がどのような状況をたどるのか、群像劇のように見せていく。1幕目の取材が通りいっぺんで、村人はひとかたまりの被害者のように描かれていたからこそ、ここで個別に行動する個々の人格が浮かびあがってくる。


虐殺がつづく中、映画は3幕目になだれこむ。1幕目と2幕目で描写されたことが、物語で回収されていく。取材するために贈った物資はジャンジャウィードに奪われ、遊んだ子供たちも捕まっていく。
いったん村をはなれていたジャーナリスト6人と警備隊だが、あずけられた赤子をうばわれた1人と、それを放っておけない1人、そして彼らを保護する警備隊長だけが、虐殺のつづく村へと戻っていく。
ここで2幕目の虐殺がきいてくる。一方的な虐殺がつづいたからこそ、たった3人でジャンジャウィードを次々に倒しても、あくまで奇襲が成功しただけと感じられ、現実感をそこなわない。ここからカットも割りすぎず、定石的な演出でアクションするので見やすくなる。
しかも、そのまま戦いぬくかと思えば、あっけなく反撃にあっていく。アクション映画の娯楽性と、そうしたヒーローの紛争における無力さが、ぎりぎりの境界線で成立している。
報道は無力と描きつつも、戦闘も有効とは描いていない。それでいて、善意や行動は無意味だと冷笑するわけでもない。かすかな救いを描き、劇映画としても成立していた。


3幕目まで、ジャンジャウィードは虐殺も陵辱も誰もためらわず、言葉をかわした唯一の存在だったリーダーも会話が通じない。
さらに最後の仕上げで子供たちを閉じこめて、小屋ごと焼きはらおうとする。誘拐して少年兵にしたてる手口を1幕目で語っているため、こうくるとは予想できなかった。
しかし、燃やすよう命じられた若者がとまどい、リーダーが復讐という動機を口にする。今さらためらうのか、今さらそれをいうのか、どちらに対してもやるせなさを感じずにいられなかった。ここまでジャンジャウィードの人格を完全に消していたことが、ここできいてくる。
しかも若者は手をにぶらせただけで、口ごたえすることもなく、ゆっくりながら小屋へ火をつけてしまう。そんな若者の仕事ぶりにあきれたのか、1人がたいまつを奪って小屋へためらいなく火をつけていく。業務としての虐殺は、まるでアイヒマンのようだ。
やがてジャーナリストの1人が捕まり、ジャンジャウィードの私刑にあう。この時、植民地化されてから放りだされたスーダンの歴史が語られ、この虐殺をどのように報道したいのかを問われる。あくまで敵側視点はアクセントとして終わった『ブラックホークダウン』より、さらに踏みこんでいる。


そして全てが終わった結末において、生きのこったジャーナリストたちは制裁の必要性も、報道の重要性もうったえない。アルコールを痛飲しながら、記憶を遠ざけ忘れたいと独白する。
しかしその表情から、忘れることはできないのだという心情が伝わってくる。そもそも結末は冒頭につながっているのだから、ジャーナリストが忘れるつもりがないこと、何らかの支援が必要と考えていることは明らかだ。
テーマを台詞だけで語らず、映像と言葉と構成の全体で表現する。描かれた出来事が、静かに自然に胸に落ちていく。