法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

ディープ・エコロジー・ドラえもん・カルト

大企業や政治家といったマジョリティにも疑似科学が根づいていることを指摘し、正面から批判した斎藤貴男カルト資本主義』という書籍がある。
基本的には企業活動や教育活動があつかわれているのだが、社会にオカルトが根づく問題を指摘しようとして、『ドラえもん』のような純然たるフィクションにも批判の矛先が向けられていた。
そこで斎藤貴男氏の意図について情報を補足しつつ、批判された『ドラえもん』のエコロジー観についてファンの視点から説明しようと思う。


カルト資本主義』の批判に勇み足が見られるということは、以前から指摘されていた。たしかに、オカルトに傾倒する動機はさまざま考えられるのに断言するには根拠不足ではないか、と読んだ当時にところどころで私も感じた。
先行する指摘に、と学会の藤倉珊氏による批判がある。それを紹介しながら、その批判が筋違いだと反論している、まかまか般若波羅蜜氏のページを紹介しよう。特に『論座』2001年4月号の斎藤貴男記事「「客観報道」では届かないメッセージ」をめぐる部分が興味深い。
「と学会誌11」pp.66-69に関するメモ [Memo 2003-08-18]*1

斎藤氏は、ある雑誌に発表した文書に対して読者から自分の意図とは正反対の読み方をされたことにショックを受けたことを明らかにした上で、以下のように述べます。

客観報道というスタイルはもともと欠陥を孕んでおり、時代の空気、大衆の気分次第で、権力のプロパガンダとして機能してしまわざるを得ないのではないか−−。
私はこの仕事を起点にソニーの超能力研究や科学技術庁のオカルト勉強会にも取材し、『カルト資本主義』(文藝春秋)として一冊にまとめる際、”客観報道”を捨てた。無名のライターが主張を躊躇わないことへの反発が予想されたが、批判をヨイショと誤読されるよりはマシだと考えた。

一言でまとめるならば、彼は批判を受けるのを覚悟で自分の主張をも書き込むよと言っているのです。それが彼言うところの「”客観報道”を捨てた」理解としては自然でしょう。

これならば、『カルト資本主義』が断言しにくい領域まで批判していた意図はわかる。形式的な中立が一方への加担となりうるという問題意識は正しいし、客観報道というものが原理的に不可能であることも事実だ。断言できないことを断言しないことは誠実だが、そうした判断もまた根本的には主観である。
むろん主観とわかる表現であれば何を主張してもいいというわけではなく、むしろ著者個人の責任は重くなり、いっそう強く正面から批判すべきといえる。だが、あえて主観を入れるという斎藤貴男氏の選択そのものは肯定したい。
読者としては、主観部分を見きわめながら、主観が取材部分に影響を与えることを考慮し、主観と取材の両方を批判的に読み解いていくべきだろう。この読者の態度は、主観であることを明らかにしていない記事や、形式的に両論併記された記事においても、もともと原則的に向けられるべきことだ。


また、まかまか般若波羅蜜氏のページには、アニメにまつわる批判にも言及がある。

 確かに、セーラームーンエヴァをオカルトとするのは、斎藤氏の無知からきているのでしょうが、斎藤氏はその直後に具体例として、

のび太のねじ巻き都市冒険記』には、惑星の環境を汚す人間を”神様”が懲らしめるという筋書きが盛り込まれていた。幼稚園児の長女にせがまれるままに観覧したものの、カルトに通じるディープ・エコロジーに近い内容には、背筋が寒くなった。子供に地球環境の大切さを訴えるのに、なぜ、得体の知れない”神様”の手など借りる必要があるのか(『カルト資本主義』文春文庫版 p.477)

 というのをあげています。こういう具体例に対し批判をするならともかく、藤倉氏は『ゲゲゲの鬼太郎』や『魔法使いサリー』を例にあげて、これらもオカルトであり昔からオカルトはある。斎藤氏がこれらを知らないはずはない。だから彼は嘘つきだ。という論を展開していますが…なんといいますか、やっぱり私憤にしか思えません。

この映画『ねじ巻き都市』*2に対する斎藤貴男氏の懸念は、つい最近にMochimasa氏*3にも批判されていた。
『カルト資本主義』なる本のダメなところ。『ドラえもん』はオカルト? - Not so open-minded that our brains drop out.

この映画を全くの事実として子供に教え込めば、事実を誤認させる危険な「ツール」になるのかもしれない。だが、それはフィクション作品全般に言えることだ。セーラームーンエヴァンゲリオンもこれは同じで、それは悪用する人が悪いのであって、作品そのものを批判するのはお門違いというものではないか。

しかしフィクション作品全般が同様であるという指摘は、ひとつの作品に弱さがあることの反論にはならないし、弱さの傾向を論じることを否定しない。『ドラえもん』の映画シリーズでは自然保護キャンペーンがおこなわれた時期もあり、通常より見識が問われることも間違いではない*4
そこで前後してMochimasa氏は具体的な物語展開に言及しながら、斎藤貴男氏の読解を批判しているのだが。

"種をまく者"はかつて自分が生命の種を巻いた地球が環境破壊で危機に瀕しているために、のび太たち人間がその惑星まで駄目にしてしまうことを憂いていたのだ。しかし、最終的には"種をまく者"はこれ以上の関与は不要と悟り、その惑星を去っていく。"種をまく者"がそう判断したのは、この"ぬいぐるみ"たちならこの星を守っていけると理解したためだ。

この物語は確かにエコロジーの思想に基づくものだが、その理想が自立した精神によって達成されるプロセスを描いた作品でもある。これは、企業の全体主義的カルト思想によって個人が思考停止に陥るという"カルト資本主義"とは対極にある思想と言えよう。

たしかにキャラクター設定の関係としては、造物主と被造物の構図を重層的に見せてはいる。主人公は造物主としてふるまいながら、被造物としてのふるまいを問われる。
しかし映像の印象としては、人間との上下関係に変化はない。そもそも「種をまく者」は、人格をもつキャラクターとしては、主人公へ一方的に長台詞で自分の立場を語った場面しか出番がないのだ。「種をまく者」は、少しずつ存在をにおわせてきて、ついに大暴れを始めたかと思ったとたん、あっさり主人公に対して被造物の人格を認めて、自立をうながすために舞台から去っていく。観客の立場としては、造物主が勝手に悟って去っていっただけで、人間との対立はほりさげられないまま。
人間と被造物の関係についても、自然と人間の価値を同等に見なすディープエコロジーとの親和性を感じないではなかった。


少なくとも『ねじ巻き都市』は、過去の映画シリーズ作品より描写が後退していたと思っている。過去作品もディープエコロジーに通じる部分を感じないではなかったが、ずっと深く描いたことで葛藤が生まれていた。
たとえば被造物の自立という主題は、1995年の『創生日記』でもとりあつかわれている。こちらでは善と悪が記号化されることなく、被造物が人間と知的に対等以上の存在になる恐怖まで示唆されている。被造物の自立が造物主の許容される範囲でおこなわれる『ねじ巻き都市』より、ずっとふみこんでいた。
映画ドラえもんオフィシャルサイト_Film History_16
1992年の『雲の王国』では、環境破壊をおこなう人間へ罰をくだそうと大洪水を起こす天上人との戦いを描いた。クライマックスにいたっては、正体を知らないとはいえ密猟者とドラえもんが協力して武力による交渉をおこなうような、きわめて逆説的な展開まである。
映画ドラえもんオフィシャルサイト_Film History_13
1990年の『アニマル惑星』では、メルヘンチックな動物の世界が、高度な環境保護技術を持っていると描写されながら、ありのままの自然を賞揚するわけではないという線引きを明確にしていた。
映画ドラえもんオフィシャルサイト_Film History_11
映画に限らない。『ドラえもん』という作品で描かれたエコロジーは、批判するにせよ賛同するにせよ、とてつもなく幅広い視野と射程を持っていた。
Mochimasa氏の『ねじ巻き都市』読解は正しいと思うが、造物主という設定が深められないまま投げ出されており、印象としては懸念を持たれるのも無理からぬ作品だと思うのだ。特に、熱心に見たわけではない斎藤貴男氏の立場ならば。もちろん、そのような態度で見た作品をわざわざ批判対象として言及すること自体が、批判されるべきという意見もあるだろうが。


ちなみに『ねじ巻き都市』の問題意識が後退していることは、当時に作品を追っていた観客ならば、同意するかはともかく理解はされると思う。物語において重層構造を深めないまま中途半端に終わった原因が見当つくからだ。
この映画では、原作連載中に原作者が死去した。下書きネームの段階でいうと、種をまく者の実体と邂逅して少しした段階で絶筆となっている。キャラクターのラフ設定画は残されていたし、全体プロットも原作者から示されていたと映画監督は語っているものの、その描写の比重などの細部までは指示がなかったろうと想像できる。過去の映画原作は、しばしば書き進めながら結末を決めるだけでなく、連載後にまとめられた単行本で追加や変更がなされることもあった。
細部が決められていなかった傍証もある。映画予告映像では、ギャグっぽい事態解決を見せた後で、「種をまく者」との戦いが示唆されている。しかし実際の映画では、「種をまく者」が去った後で、ギャグっぽく弱い敵を倒して終わるのだ。
つまり意識して造物主との葛藤を強く描かなかったのではなく、物語を急いでまとめるために対立や葛藤を深めないまま造物主を退場させるしかなかったのが真相だと思っている。個人的には、スタッフ交代後の映画リメイクを最も待ち望んでいる作品だ。


私は、懸念の段階ならば斎藤貴男氏のフィクション評価にいくらかの妥当性はあるし、あるいは先行する作品批判を押さえていたのではないかとも思っている。
まかまか般若波羅蜜氏は「無知からきているのでしょう」と評価していたが、『セーラームーン』と『エヴァ』にも懸念されうる弱さはある。前者は少女マンガ『ぼくの地球を守って』に代表される「前世」思想を根幹設定においていたし、後者は放映時から終盤の自己啓発セミナーとの類似性が批判されたりもしていた。『カルト資本主義』の作品評価に、さほどの個性はない。
ただ、いくらそれを目的とした書籍ではないとはいえ、個別の作品とジャンル全体との関係や、フィクションと社会の影響順序といった考察は足りないと思っている。たとえば時系列からいえば、むしろ『セーラームーン』はオカルトから少女マンガや少女アニメが距離をとっていく過渡期の作品ということもいえるだろう。『ねじ巻き都市』の造物主が、自立を賞揚するため去りゆく位置づけのキャラクターであったように。


いずれにせよ、フィクションに限らず表現からはさまざまなメッセージを読みとれるわけだが、だからといって全ての作品を同等視することはできない。きちんとメッセージの危険性に自覚的な作品もあれば、誤ったメッセージの源流になる作品もある。
斎藤貴男氏が批判してMochimasa氏が反論したように、読者側がていねいに読みといていくことで「ツール」として利用されることを防ぎ、誤ったメッセージは解体されていく。そう私は期待している。

*1:太字強調は原文ママ。引用時、引用内引用に引用枠を足した。

*2:以下、同様にタイトルを適宜省略する。

*3:はてなブログトラックバック機能がないようなので、ツイッターアカウント[twitter:@Mochimasa]に通知しておく。

*4:公式サイトに掲載されているポスターを見れば、5作目にあたる1984年の『魔界大冒険』からキャンペーン用マークが下部に確認できる。http://www.dora-movie.com/top.html