法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ガッチャマン クラウズ』のはじめちゃんは新しいヒーローか?

人間の意識を実体化した怪物クラウズ。携帯のアプリケーションとして配布され、一般人でも操作することができる。そのクラウズで世界をアップデートしようとする存在とガッチャマンは戦いながら、やがて社会そのものの変化にあわせて自らも変化をせまられていく。
新技術によって社会が後戻りできない変化にいたる結末はSFとして古典的だし、クラウズを国民主権の隠喩と見れば寓話としても古典的だ。
そうして表層をはぎとれば古典的な構図の物語において、特異で独特だったのはトリックスターの役割だ。


実をいうと、先にトリックスターとして人気を集めていたらしいベルク・カッツェには不満をいだいていた。
個人的に、饒舌なトリックスターが好きではない。より正確にいうと、「自分はトリックスターですよー」と台詞でアピールするトリックスターが嫌いだ。
ただ混沌を望んで混沌を作っているだけでは、物語において道具でしかないことがあからさまだ。せめて演じるように育った経緯が描かれたり、演じなければならない動機が隠されていたなら、まだいい。空虚なトリックスターのまま終わるのなら、誰かがシャレで作った単純なジョークbotが悪意なく実体化しただけというくらいの設定で良かった。
主人公のはじめちゃんがトリックスターとして特異で面白いからこそ、自身のトリックスター性をアピールするしか中身がないベルク・カッツェがつまらなく感じていた。


トリックスターとしては平凡なベルク・カッツェに対して、はじめちゃんはトリックスターとヒーローの立場をかねそなえつつ、通常のそれらに期待されるのとは反対の性格を持っている。正直にいうと性格そのものは好みから外れているが、その位置づけが面白い。
はじめちゃんの口癖は「そうなんですかねー?」や「何なんですかねー?」だ。「駆逐してやる!」でも「それは違うよ!」でもない。積極的な行動や拒絶的な否定をすることは少なく、行動に留保し主張に懐疑する。状況をひっかきまわそうとしない。
ただ、その留保や懐疑が敵味方という垣根そのものにも向けられているためと、広く意見をつのることには積極的な結果、一見してトリックスターらしくなっている。


ちなみに中村健治監督の放送前コメントを読むと、「僕らの心がネットにより可視化された」という現状認識が語られている。
イントロダクション|ガッチャマン クラウズ|日本テレビ

世界は今、2つの新たな局面に差し掛かっています。


1つ目は、有史以来初めて、僕らの心がネットにより可視化された事。
可視化された心が起こす様々な問題や騒動をどう捉えていいか解らず、
個人も社会もただただ戸惑っています。

監督の考えを延長すれば、意見をつのるという数少ないトリックスター的な行動すら、実際は現状を追認しながら制御するという消極的行動なのだ。
実際、はじめちゃんが情報開示せずとも、いずれベルク・カッツェや第三者ガッチャマンやクラウズの情報をもらしていったことが作品からも見てとれる。クラウズが蔓延する物語の結末すら、はじめちゃんが存在しなくても、いずれアップデートされただろう不可避の未来にすぎない。
そしてベルク・カッツェもまた、存在しなくても世界が何らかの変化をしただろうことが最終回で示唆された。トリックスターは状況を乱すことはできても、もはや広くつながった世界すべてを牽引することはできない。それは主人公でも敵でも変わらなかった。
そのこともまた、監督の放送前コメントで語られていた。

2つ目は、拡大した僕らの世界はあらゆる分野が細かく専門化され、
1人の人間ではその全容を理解する事が不可能になっている事。
それでも僕らは、1人の優秀なリーダーが全てを抱えてくれると盲信しています。


最終回、クラウズを一般人が入手して変わっていくだろう社会について問われた時、はじめちゃんは「それは、わっかんないっすー!」と明言する。その答えに対して「普通、こういう時、大丈夫っていってくれるんじゃないの?」と苦笑いされるという、駄目押しの描写まである。
クラウズという社会を変化させる存在に対して、一般人より先に決断するヒーローどころか、状況に熱狂したり巻き込まれたりする一般人よりも、はじめちゃんは慎重に判断しようとしていた。


なお、総集編ではじめちゃんが他のガッチャマンから絶賛される描写はある。
#GATCHAMANCROWDS 11 Gamification ゲーム的戯画化?将棋・外交など - 旧玖足手帖-日記帳-

僕ははじめもそんなに大した人間ではないって思ってるし、どーも「はじめたんは神!」「はじめちゃんみたいな人は他にいない!」みたいに主人公をそこまで持ち上げるのって承服しかねるのだ。

「はじめは明るい太陽みたいな子!」「はじめは違う角度から本質を見抜く!」って言われると、僕は「いや、それだけじゃないだろ」って思うだけど。

正直いって、監督焼き土下座もののスケジュール破綻ぶりをひしひしと感じた*1。ただ、その絶賛評をヒーロー性の賞揚として素直に受け取る必要はないだろう。
むしろヒーローらしくないゆえにヒーローから高評価されたと解釈すれば、これまでの解釈と整合性はある。ヒーローは決断して進む存在だからこそ、はじめちゃんの特異な慎重さを、一般人より強く感じたのではないか。


ここで同時期に放映された『バトルスピリッツ ソードアイズ』を思い出す。その主人公ツルギは、貴種流離譚らしい出自をもちながら、中盤から兄王の補佐に徹するようになった。ヒーロー的な立場でありながら、慎重な行動を選択して状況を見きわめようとしていた。
『バトルスピリッツ ソードアイズ』雑多な感想 - 法華狼の日記
ただし世界の変革を仲間とともに達成したツルギと違って、はじめちゃん自身は必ずしも新しさを求めていない。新しい技術を楽しむが、勇み足しないために軸足を乗せず、人を傷つけかねない時は軽やかに捨てる。
もちろん社会の変化を止めようとする懐古主義とも違う。社会の変化は不可避だと考え、社会を変化させようとする人と今の社会に生きる人をどちらも全否定することなく、せめて衝突を防ごうと行動していた。
どこまでも慎重でありつつ実行において軽々としているところが、決断力と強い動機が求められた旧来のヒーローと比べて目新しい。決断を拒絶する過去のヒーローは、たいてい深い苦悩を表出させていたものだ。


このように考えていくと、はじめちゃんが最後に母親へ伝えた言葉の意味もわかりやすい。「ひとつだけ。ボクはボクだよ、何があっても」という台詞を、そのまま読みとればいい。
あともどりできないアップデートをつづけ、誰もがヒーローになりうる世界で、個人がどうすればいいのかという問いへの古典的な答え。その気持ちをもちつづけることが新時代のヒーローという物語だったのだろう。

*1:実際、スケジュール破綻が監督作品で最もひどかったそうで、イベント的にスタッフの前で土下座したらしい。https://twitter.com/yoshi_ma62/status/383606347922567168