法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

毎日新聞コラムの「あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ」という文章について

科学者とのコミュニケーションについて、科学部の記者が短いコラムを書いていた。
http://mainichi.jp/feature/news/20130912ddm013070030000c.html

 最近、取材で「私たちのことを理解してくれているようですね」と複数の研究者から言われた。「科学者としての立場や思考回路を分かっている」という意味だと解釈したが、内心、「これはまずい」と感じている。

 アレルギー体質に苦しんだ根源を知りたくてサイエンスを扱う現在の科学環境部を希望、東京と大阪で勤務して11年になる。しかし学生時代、文学部哲学科社会学専攻だった私にとって、当初は取材対象者の言葉が「宇宙語」にしか聞こえなかった。科学的な内容より「理系の研究者とはなぜ、こんな考え方、表現をするのか」と理解不能な日々が続いた。だが、やがて「科学者とはこんなもの」と自分の中で折り合いをつけ、取材するようになる。そこに慢心がなかったか。

 科学記者は、科学者ではない。その他の分野でも同じことだが、「あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ」と指摘することも、私たちの重要な役割だと思う。そのことを改めて肝に銘じ、今後も仕事を続けたい。【江口一】

この短い雑感記事が、はてなブックマークツイッターで批判をあびている。
はてなブックマーク - サイエンスカフェ:「科学者ではない」- 毎日jp(毎日新聞)
http://topsy.com/trackback?url=http://mainichi.jp/feature/news/20130912ddm013070030000c.html
ざっと見て、科学者の言葉を「あなた以外の世界」へ伝えるのは科学記者の仕事だろうという批判と、そもそも文意がとりづらくて誰の何を批判しているのかわからないという批判に大別されているようだ。


このコラムは前段と中断と後段にわかれている。問題を提起し、その問題が生まれる経過を説明し、結論を出すという構成だ。
中段は、記者自身が科学者にどう応じてきたかを書いている。なぜ科学に興味を持ったのかという動機から導入して、理解不能だった科学者の言葉に折り合いをつけて取材するようになった現在を説明。「そこに慢心がなかったか」は記者の自戒と読むべきだろう。もちろん、過去に理解不能だった責任を科学者に負わせているとは読めない。
前段と後段でのみ、科学者と記者のコミュニケーションが描かれている。これは冒頭で問題提起しながらいったんわきによけて、あらためて末尾で回収する文章技法と読むべきだろう*1カギカッコが、中段では内心の説明や強調に使われているのに対し、前段と後段では具体的な台詞が想定されている違いからもわかる。つまり「あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ」という指摘は、「私たちのことを理解してくれているようですね」という台詞に対応している。立場や思考回路が理解されたと思ったらしい科学者に対して、それは誤解だと応じるべきだったと記者が反省しているのだ。


気づかれざるディスコミュニケーションの存在へ注意をうながすつもりで、また別のディスコミュニケーションを生んでしまうとは、難儀な記者ではある。
このコラムに限らず、文意がとりづらいという批判は記者が負うべきではある。それに、社交辞令に対して考えすぎたような印象ももたないではなかった。そして、たとえ誤解をとくためであっても、現状を認識させるつもりであっても、あなたの言葉は理解できないと返答することを「指摘」と表現するべきでなかったとも思う。
しかし、コミュニケーションの全責任を記者が科学者に負わせているという批判は、それはそれで的を外しているのではないだろうか。

*1:個人的に好んでいる文章構成なのだが、これほど多くの読者に理解されにくいとは思わなかった。