法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

他者を異物とみなす諸問題を描いた小説『ジェノサイド』に対し、日本の虐殺行為も描かれているから反日小説だと評する謎

『ジェノサイド』という小説は、新生物との衝突をとおして、人類という生物種の本能が虐殺の原因なのかと問いかける。
『ジェノサイド』高野和明著 - 法華狼の日記
そして、そう問いかけた結果として、一部から「反日」小説と呼ばれている。インターネットで検索すれば、2ちゃんねるスレッド等で反発している意見が引っかかる。
5ちゃんねる error 3001
現時点で最も高評価されているAmazonレビューも、南京事件を懐疑する内容だ。
面白かったけど。。。

4、南京大虐殺など日本が行なった不透明な部分の多いジェノサイド(大虐殺)ばかりを例に出す。
  日本のジェノサイドを出すのであれば日本人が被害にあったジェノサイド(通州事件など)も例に
  出して初めて対等ではないか?
  特に南京の下りでは「性的虐待をした後、性器に銃剣を日本人は突き刺した」と断言しています。

人類史の虐殺をふりかえるにあたって、関東大震災における朝鮮人虐殺や、日本社会にはびこる朝鮮人差別が描かれたこと。さらに善良な韓国人留学生が主人公ケントの味方となり、南京大虐殺に言及したこと。それが「反日」だというのだ。
そこで素直に差別意識を表出できないでいるためか、奇妙な論理をこねくりまわしたり、明記された描写を読み落とした批判が目立つ。結果として、よりはっきり差別意識を露呈してしまっている。


まず前提として、この小説は日本の作家が日本の読者に向けた小説である。人類史の虐殺を言及する時に、自国の被害を優先する態度は誠実といえるだろうか。
そして主人公は、米国人の傭兵イエーガーと、日本人の大学院生ケントと、米国の科学者ルーベンスである。導入部から描かれるのは、イラク戦争の失敗や米国の非人道政策、そして民間警備会社につとめてテロリストらしきイラク国民を殺しつづける傭兵の物語だ。比率としては米国の非人道行為への言及が多い。一方でケントは、ごく平凡な大学院生であり、物語の当初から父の遺した研究の話ばかりつづく。
ケントが周囲の差別意識を思い出すのは、研究のために紹介された韓国人留学生と出会った時のこと。留学生を歓迎しながら伯父と祖父が「シナ」や「朝鮮」を無根拠に蔑視していた中学生時代の記憶を脳裏に浮かべる*1

「あいつらは信用ならん。シナ人も朝鮮人もだ」と酒の席で力説する伯父の言葉に、研人は最初、素直に驚いた。甲府の街に、そんなに多くの外国人が居住しているのかと意外だったのである。
「伯父さんたちは、中国とか韓国の人と付き合いがあるの?」
 研人が訊くと、伯父は目を白黒させてから言った。「ない」

「おじいちゃんはな、若い頃、東京に出て朝鮮人と喧嘩になったんだ。それでひどく痛めつけられた」
 腕っ節の強さが自慢だった祖父に、研人は訊いた。「日本人と喧嘩をしたことは?」
「そんなのは何度もある」
「じゃあ、日本人も嫌いになった?」
 祖父はあんぐりと口を開けた。「馬鹿なことを言うな。日本人が日本人を嫌いになるわけがないだろう」

主張も反論も、それこそ現実のインターネットで検索すれば、ぞろぞろ出てくるような内容でしかない。そのためか、このくだりに対してインターネットで反発する意見は、このような差別をする人間はいないという主張ではなく、そのような評価をされても韓国ならばしかたないという主張が多いようだ。
つづけてケントが思い出す関東大震災の虐殺も、戦争ではない状況で一般人が起こした事件として、より身近に起こりうる惨劇として、言及する意味は明確だ。もちろん日本人も犠牲になったと言及されている。東日本大震災におけるさまざまな騒動を思い起こせば、その意義は充分にあった。
韓国人留学生の存在も、国籍や過去の歴史を超えて人間が協力できることを示す意味があるし、国家機関に追われるようになった立場で過去に関係のなかった人物から協力を受けなければならないという必然性もある。
逆にいうと留学生は役割が明確すぎて、陰影が足りない感はあった。韓国に徴兵制があるという言及もされているのだから、朝鮮半島を分断されて戦っている痛みや、韓国軍の問題点を語らせても良かったかもしれない。


また、たしかにコンゴ奥地の住人虐殺を目にして、主人公イエーガー南京大虐殺を思い出したくだりはある。しかしイエーガーは米国人傭兵だ。その視点において南京事件を史実と考えて想起することに何ら不思議はない。
巻末に並んでいる参考文献を見ても、はっきり南京事件とかかわりあるのは、秦郁彦南京事件 増補版』と松岡環『南京戦 引きさかれた受難者の魂 被害者120人の証言』くらい。概説書と証言集という対比もあって、むしろ偏向を慎重に避けようとしている感すらある。
しかも分量は虐殺描写の全体から見てわずかで、日本の加害を特筆して想起しているわけですらなかった*2

 民兵たちは、全員が首からアクセサリーをぶら下げていた。紐で通された装飾物は、切断された人間の耳と、それに男根だった。小銃に括り付けている者もいる。ベトナム戦争の際、一部のアメリカ兵が似たようなことをやっていたとイエーガーは聞いた覚えがあった。

 そのうち暴力はエスカレートし、陰茎を屹立させたままの男たちが、レイプ被害者の性器に銃剣を突き刺して殺し始めた。南京大虐殺の際に、日本人が中国人を相手にやった手口だ。イエーガーは軍隊時代の訓練で、こうした場面に遭遇しても精神が破壊されないように教育を受けていた。ロシア兵が捕虜を虐殺する殺人映画を何度も見せられていたのである。

村人たちの手足を切断し、首を刎ねて回っている民兵の姿に、これまで大量殺戮を繰り返してきたあらゆる人種、あらゆる民族、あらゆる人間たちの姿が重なって見えた。

全体の流れを見ると、まず最初がベトナム戦争における米兵士の行為であり、その次に南京大虐殺で、その後にロシア兵の捕虜虐殺映像を語って、あらゆる人種の歴史を重ねている。この場面において、短く説明された日本の戦争犯罪のみを疑問視し、削除するように求める態度が、どれほど醜悪なことか。
その醜悪さについて、明確に釘を刺すくだりすら上記引用の直後にある*3

 もしもここにジャーナリストがいたら、殺戮の模様を文章にしたためたことだろう。その記事が、読む者の心に平和への希求を芽生えさせるのと同時に、怖いもの見たさの猟奇趣味を煽り立ててしまうのを知りながら。そして、低俗な娯楽の送り手と受け手は、殺戮者たちと同じ生物種でありながら自分だけは別だと思い込み、口先だけの世界平和を唱えて満足を覚えるのだ。

読者に対してだけでなく、作者自身の自省もこめた内容だ。自虐作家と呼ぶのなら、同意はしないがまだわかる。反日作家と呼んで日本人ではないと考える読者は、あまりに小説を読めていない。


他に、イエーガーの部下となった日本人傭兵ミックの言動も、あたかも日本人が特別に残虐な存在であるかのような描写だと評価されている。たしかに日本人傭兵は隊長の指示を聞かず、戦闘を楽しむような態度をとり、他の傭兵と感情的に軋轢を起こす。そして相手が少年兵であろうと迷わない。
しかし、同じ行動で日本人だけ低評価がくだされているわけではないことは、実際の描写を読めばわかる。
ミックの低評価は、主に隊長や仲間の視点によるものだ。衝突の発端からして、異なる群れの子供を殺している類人猿に対して勝手に武器を使ったことが原因だ。この時点では、隊全体を危機におとしいれかねなかったことが批判されており、苦しんでいる子猿を楽に殺してあげたかったのか、残虐なボス猿への怒りか、戦闘力の誇示か、イエーガーは複数の動機を想像している*4
そして衝突が決定的となる少年兵との戦闘も、それより先にイエーガーが特別に子供と戦いたがらない心情を克明に描いている。何しろ小説全体をつらぬくイエーガーの行動理由は、自らの息子を救うことだ。新生物と人類の戦いにおいて、できるだけ人類同士の戦闘を避けようと思考している背景もある*5
そして少年兵との戦闘がすぎさって気持ちが落ちついた時、はっきり自問自答するくだりまである*6

 この国に入ってから、自分は何か正しいことをしたのだろうかとイエーガーは考えた。それとも、ここにいる武装集団と同じレベルに身を堕とし、我欲に駆られて敵と、そして仲間を殺しまくっただけなのだろうか。落ち着いて振り返ってみれば、教会の屋上でミックが子供たちを攻撃していなければ、自分たちは全滅させられていたかも知れないのだ。これは戦争だと割り切って、生存のための戦いを続けたミックこそが、正しい行いをしたのではないかとさえ思えてくる。イエーガーがすべきことは、一同を危機から救ったミックに、汚れ役を押し付けて申し訳なかったと謝ることだったのではないか。

この自問自答からわかるように、ミックの役割は明確だ。生き残るため、誰かを救うためであっても、武器をとって戦うことは正しいのかどうか。その問いを主人公側へ二重三重につきつけるため、ミックは戦闘狂のような存在として描かれた。きちんと小説を読めば、イエーガー自身も何度となく戦闘に高揚感をおぼえている描写がある。
なぜミックが日本人なのかというと、それは読者が自らになぞらえることを期待してのことだろう。また、抑圧への反発でことさら武力を求めたという背景が示唆されていることから、戦争から遠い国に生まれて傭兵となったという設定そのものの意味もある。
もっとミックの背景をほりさげてほしかったといった感想ならば理解できるのだが、実際の描写を無視した批判は的外れといわざるをえない。


最後に、たしかに韓国の戦争犯罪や虐殺行為は描かれていない。異なる文化も主人公視点から賞揚されている。だが、それより先に戦争を起こさない民族として、その地域で生き抜くための能力を持つ存在として、アフリカ奥地の少数民族が賞揚されている。むしろ米国人イエーガーとアフリカ現地人が協力することの鏡像として、日本人ケントと外国人留学生の協力が描かれたという構図で考えるべきではないだろうか。
この物語は、そうして主人公の立場から協力してもらう韓国人とアフリカ人の両方を特別視している。それが裏返しの差別意識であるという批判はできるかもしれない。しかし韓国人だけ特別視されているという読みは、明らかに間違っている。
なぜアフリカ人の賞揚は気にならず、韓国人だけ賞揚されていると感じるのか。それは韓国が少しでも賞揚されることが許せないと思うためか。それとも、アフリカで起きていることを遠い異世界の問題と思っているのか。

*1:143〜144頁。

*2:324〜325頁。引用時にルビを排した。

*3:325頁。引用元では「認めた」にルビをふっていたのを、「したためた」へと表記を変えた。

*4:175頁。

*5:物語の根幹設定にかかわるので、詳細は省略する。

*6:461〜462頁。