法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

慰安婦の子宮と靖国神社

先日、沖縄県従軍慰安婦のシンポジウムが開かれ、琉球新報が記事にしていた。その記事で、元慰安婦の李守山証言がとりあげられていた。
焼きごて、子宮摘出… 元「慰安婦」李守山さん、シンポで証言 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

旧日本軍による拷問で体中にやけどを負い、妊娠発覚後に子宮を摘出させられた過去を振り返った李さんは、「慰安婦」の強制性を否定する日本国内の動きに「これが私の人生です。皆さん、力を合わせて一緒に、『慰安婦』は強制だったと言ってほしい。そうしてくれれば、何も望まない」と声を振り絞った。
 海辺の村で暮らしていた17歳の時、警察官に「紡績工場に就職できる」とだまされ、少女7人で汽車に乗せられ、満州の牡丹江にあった旧日本軍の慰安所へ連れて来られた。兵隊は毎日、列をなした。脱走した李さんを焼きごてによる拷問が待ち受けていた。妊娠して子宮を奪われた後も、慰安所に戻された。

あまりに過酷な体験談であり、現実に起きたことと思いたくない人もいるかもしれない。
そのためか、まともな検討もせず疑問視したり、無根拠に虚偽証言あつかいしている人が多いようだ。
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もちろん、性被害者が誤記憶に悩まされるという傾向はある。あくまで過去の主観的真実を証言しているのであって、証言者が正しい説明を周囲から受けていない可能性もある。
しかし、とぼしい知識から証言を誤りと決めつけることもさけるべきだ。意図的な虚偽とあつかうにいたっては、より明確な根拠が求められる。


まず、戦争末期に子宮摘出をおこなうような設備が慰安所にあったかという疑問に対しては、yasugoro_2012氏がすでに詳細な回答している。
6月17日付け琉球新報の元「慰安婦」李守山さんの証言記事について - 思いつきのメモ帳

これに対して、まず言えるのは牡丹江(牡丹江市)は1945年8月のソ連の参戦までは前線ではなかったということと、牡丹江には虎林陸軍病院の分院があったことです。位置関係としては、虎林が前線で牡丹江が後方になります。

また、類する証言が過去にないかのような評価も多く目にするが*1、子宮が傷ついたり摘出されたという証言は今回が初出ではない。1995年の吉見義明『従軍慰安婦』で、むしろ典型的な戦後の後遺症のひとつに数えられている*2

 慰安婦にされたことによって女性たちは、戦後、後遺症・トラウマ(精神的外傷)に悩み、社会的差別に苦しまなければならなかった。女性たちの戦後の病歴でめだつのは、慰安婦生活のために生じた性病・子宮疾患・子宮摘出・不妊などの身体の病気と、神経症鬱病言語障害などの心の病気である。以下、典型的なケースをみておきたい。
 『証言』によれば、十九人の韓国人元慰安婦のうち、二名が長い間性病に悩まされている。産まれた長男に梅毒の症状が現れ、家庭が崩壊したケースもあった。子宮病は少なくなく、子宮摘出の手術を受けた人もいる。

終戦から数年後の朝鮮半島でのことだが、やはり子宮摘出手術を受けた別の事例もある。この金田君子証言はアジア女性基金サイトに残されており、日本政府が半公式的に妥当性を認めた証言者と考えていいだろう。
被害者の声-それぞれの被害状況と戦後 慰安婦問題とアジア女性基金

現実から逃避するために吸い始めたアヘンの中毒になった金田さんは1945年、帰国を許されました。戦後過酷な慰安所生活で傷ついた子宮を摘出しなくてはなりませんでした。

朝から夜まで兵隊を相手にした。15人以内だった。討伐から帰ったときは、朝早くから来た。多い日は20人位になった。だからあとで子宮を(20代で)摘出するようになった。

このように、どちらかといえば古くから知られた事例なのだ。同時に、あまりに過酷すぎて、個別に紹介することをためらう事例でもある。
だから直視することが難しいという心情まではわかる。しかしせめて、せまい視野やとぼしい知識から安易に否定論を口にしないでほしい。
日本軍によってうばわれたのは、従軍慰安婦の肉体だけではない。


先述した金田君子証言に、日本兵に対する心情を語ったくだりがある*3
もちろん、この証言ひとつで日本兵すべてを免罪することはできない。このような過酷な状況で生まれた心情を、そのまま美しい物語として消費することもさけるべきだ。
しかしそれでも、兵士ひとりひとりにとって、たしかに従軍慰安婦ひとりひとりが「休息」となった場面もあったのだろうと思える。そしてだからこそ、軍から兵士へあてがわれた「慰安」が、どれほど安易で空虚なものだったかと思う。

 軍人たちも月に数百人が負傷して帰り、死んで部隊に帰ってきた。運動場の広場に板を敷いて天幕を張り、そこで死んだ兵隊、負傷した兵隊を寝かせた。「痛いよ」と兵隊はうめいている。生きる望みのある人には、水をやらないで、アルコールをつけた綿で口をふいてやり、モルヒネ注射がおいてあるので、それを射ってあげると眠るよ。重傷者には2本うちますよ。モルヒネをうつと、痛い痛いとうめかないで、眠ります。後で注射が切れると、私の服をつかんで、ふだんは金田君子と呼ぶのに、その時は「姉さん」と呼びますよ。「姉さん、もう一回頼むよ」って。かわいそうで、また射ってあげると、また眠る。そして死んでいく時は、「天皇陛下万歳」と言って、死ぬ人は一人もいなかった。自分の母さんや妻、子供の写真を見ながら、「母さん、俺は死ぬかもしれないけど、死んだら靖国神社で会いましょう」と言って、泣くよ。私もつられて泣いた。
 だから、靖国神社がどんなによくできたところかと思った。靖国神社の花の下に行くと言っていたので、行ってみたが、何もない。白い鳩しかいなかった。私はそこに座り込んで、黙って考えた。軍人たちは昔自分が死ぬと、靖国神社の花の下に行くと言っていたのに、白い鳩が恨となって、ここにいるのだろうと私は思った。心が痛くて、自販機で買ったエサをやると、鳩は私の手までとまって、エサを食べていた。

*1:はてなブックマークid:qwiahate氏の「期待の新人2013/06/17」や、id:myrmex氏の「かわいそうなオモニと迎合したばっかりに、こんな虚言まで出てくる始末」といったコメントが代表。

*2:213頁。

*3:引用時に、「(映像はこちら)」という証言映像へのリンクを排した。