2011年12月の少し古いエントリだが、ツイッターを中心に再び話題になっているようなので*1、批判することにした。とりあえず、「1. 金明秀氏の研究では差別の存在が未確認」という章に対象をしぼる。
ある計量社会学者が他人を罵倒する理由*2
差別問題で金明秀氏はよく論戦を繰り広げているが、意外に差別の立証を重点的に研究しているようではないようだ。
金明秀氏のInternational Journal of Japanese Sociologyに掲載された論文では日本人と在日韓国人の間に有意な社会的な差が無いと指摘している。「年報人間科学」掲載論文でも、過去に職業差別があった一方で、現在では教育水準や職業構成などで大きな差が無いと指摘している。引用やデータ提示無しで「在日韓国・朝鮮人青年たちに門戸を閉ざした日本企業は、依然としてあとを絶たない」と記述し、「分析者である私(金明秀)自身、身近に就職差別を受けたという親族、知人・友人に、いまだこと欠かない状況がある」と述懐しているが、これらは統計的に差別の存在を確認したことにならない。
福岡安則氏との共著である『講座・差別の社会学2 日本社会の差別構造』に収録された論文「在日韓国・朝鮮人のアイデンティティと差別構造」の前半部分で、金明秀氏は幾つかの差別と民族的劣等感の実例を示している。しかし、差別体験の内情については、求職時の逸話以外はほとんど触れていない。
計量分析が仮説に対する検定を行っていないため、他分野から見ると差別の存在が無いだけではなく計量手法が稚拙な可能性も否定できないが、金明秀氏の研究では統計的に差別を立証できていないのは確かだ。金明秀氏が愛用する「告発の無効化」をされる以前に、告発になっていない。
追記(2013/04/15 23:55):「具体的な行為レベルの差別の体験以上に、周囲の日本人の態度レベルの差別感を意識させられる度合いのほうが高い」(『講座・差別の社会学2 日本社会の差別構造』P.38脚注5)とある。
差別があったとの証言に対し、「これらは統計的に差別の存在を確認したことにならない」という結論に繋げる理由が、よくわからない。一つの統計には表れない差別が存在したという証言であって、どちらかといえば統計調査が全てではないという留意である。
また、仮に指摘された論文において差別が立証できていなかったとしても、それらの論文とは独立した差別が存在すると主張することが間違いと決められるわけではない。学歴と就職にテーマをしぼった論文で、差別とされうる他の事例まで全て網羅できるわけがない。そして一部のテーマで差別が見いだせなかったからといって、他で指摘される差別の存在が否定できるわけではない。
ちなみに「ニュースの社会科学的な裏側」を書いている[twitter:@uncorrelated]氏も、2013年における下記エントリでは、入居差別が存在するという主張を認めているようだ。くわえて小中高生の「態度レベル」とはいいがたい差別に対しても、少なくないと見ている……なぜか「大した事では無い」と評価しているが。
朝鮮学校の無償化対象外を完璧にするために
在日韓国・朝鮮人への差別や罵倒の抑制が必要だと言う事だ。日本は人種差別撤廃条約を批准しているのだが、入居差別などがあるらしい。これを積極的に改善を促していないし、社会保障の位置づけも通達レベルなので法的には確固としていない。これらは制度的欠陥だと思われるから、改善する必要がある。また、大した事では無いのだが、小中高生で差別用語で在日韓国・朝鮮人を馬鹿にしようとする日本人は少なく無いと思われる。そういう子ども達への教育も必要だ*3。
そもそも、「過去に職業差別があった」とuncorrelated氏が要約している「過去」とは、どれほど昔のことなのだろうか。その記述があるという「年報人間科学」の掲載論文から、該当する部分を引用する。
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成育家庭での家計支持者を「父親」と回答した者のみ取り上げたため、サンプル数は六七五名になった。父親の年齢は、四五歳から五九歳までで全体の約八割を占めている。調査対象者が一八〜三〇歳であることを考えると、妥当な数値だろう。
本調査父親のうち、約七割までもが零細企業や自営業を営んでいるのにたいして、一般従業者はわずか二割に満たないということになる。SSM父親で、農業従事者を除けば六割以上が一般従業者であることと比較すると、これは圧倒的な比率の違いである。国内植民地論や、二重労働市場論を彷彿とさせる、圧倒的な労働市場の閉鎖性がうかがわれる。
ここで、前節でおこなった教育達成の検討を思いおこしていただきたい。前節での結論は、青年層にかぎらず、学歴の達成に民族間の差異は見られない、ということであった。つまり、父親の世代においても、日本人と同等の学歴水準を達成していたのである。にもかかわらず、従業上の地位でこれほど大きな差異が生じているということは、とりもなおさず、この労働市場の閉鎖性が、学歴の達成によっても突破することが困難なほど強固なものであったということにほかならない。
父親の職業は、現在就業中のものをたずねた内容なので、ほとんどの回答者が最終学歴を獲得した後のデータである。
まさしく、学歴と就業という関連するテーマでありながら、一方のテーマでのみ差別が統計調査に表れた例である。調査の一部に差別が見られなかったからといって、差別証言を全否定する根拠にはならないわけだ。
そして、「ニュースの社会科学的な裏側」で「過去」とされていた職業差別が、すぎさった一時的な差別ではないことも明らかだ。少なくとも調査の行われた1993年当時、仕事をしていた壮年世代が受けていた「現在」の差別であった。金教授の論文は、はっきりと差別の存在を統計的に立証していたといえる。ついでに、約20年前の調査とはいえ、大半が零細企業や自営業を営んでいることから、父親世代が現在は退職しているとしても、日本人の平均と同等の老後をおくっているとは考えにくい。
当時18歳から30歳までの若者に学歴や就職での顕著な差が見られないということは、一定の改善として日本社会が誇れる結果であったかもしれない*3。だが、それが即座に学歴や就職以外で差別されていないことと関連するわけでもない。いわんや、差別の実態を明確に指摘した論文を、差別が存在しなかった証拠であるかのように主張することは恥ずべき欺瞞だ。
ところで金教授が主張しているという「告発の無効化」とは、「告発の無力化」のことではないだろうか。
110803 @han_org さんの【告発を無力化する話法】 - Togetter
そうだとすれば、上記にまとめられている事例の、「昔に比べたら差別なんてないんじゃないか。」や「差別なんてほおっておくのが一番。自然にしていればいつかなくなるのだから。」が、まさに「ニュースの社会科学的な裏側」へ当てはまる。
はたしてuncorrelated氏のブログが称している「社会科学的な裏側」とは、いったいどういう意味なのだろうか。