法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「必要悪」という言葉はしばしば犠牲を強要する口実となる

横から口を出す形になるかもしれないが、昔にかかわったこともあり、気になったので。
Naoki Takahashi氏の「まおゆう魔王勇者」解説。まおゆうは本当にネオリベで戦争賛美なのか? - Togetter

個人的に連想したのが、マンガ『南京の真実』の終盤に登場した台詞。
『1937 南京の真実』の真実 - 法華狼の日記

批判してきた東京裁判を擁護して「しかし…」「時計の針を元に戻すわけにはいきません」「戦後という時代を迎えるための生贄が必要だったのかもしれません―――」と戦犯や遺族を激怒させそうな台詞を口にした

そこで最終的に「必要」という単語を選択し、読者も過程にすぎないとして擁護にまわりがちだから、思想面から批判されるのではないだろうか。
作品自体、多くのスレッドをまたがる長大さで、複数視点で描かれているのに、ほとんどエクスキューズらしい描写がなかった。普通なら、「キャシャーン無用の街」のようなエピソードを入れたくなりそうなものなのに。どちらかといえば作劇的な欠点だが、その欠点ゆえに反感を抑えられなかったという感想。
そのあたり、前後して[twitter:@NaokiTakahashi]氏も、主人公が賢くないと自覚しているという解釈をしている。

「必要」のかわりに、たとえば「限界」という表現にてっせれば、いくらか反応は違ったものになるんじゃないかな。


ところで、前々から思っていた怒られそうなことを敢えて言う。
同じように人間社会の歴史的な変化をシミュレーションするジャンルで、導き手の意図を超えて民衆が自我を確立していく物語として、『大長編ドラえもん のび太の創世日記』という作品がある。
映画ドラえもんオフィシャルサイト_Film History_16
たぶん『まおゆう魔王勇者』よりは政治的に正しそうな作品だ。しかし、藤子・F・不二雄原作の『大長編ドラえもん』から映画化された中では、最もつまらなかった。連載マンガとしてはバラエティある偽史エピソードで毎号を楽しめたのだが、決定的な犠牲や危機を回避し続けたために、映画原作としてはサスペンスの起伏が小さすぎたのだ。アニメ映画は、クライマックスにイメージシーンの戦闘を入れて、なんとか映画らしいアクションを描こうとしていたくらい。
私個人としては、政治的な正しさと物語の面白さが相反するとは思わないが、必ず相関するとも思っていない、という話。