法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『天地明察』冲方丁著

日本独自の暦を作った渋川春海と、和算の始祖となった関孝和が、改暦において接点があったという史実に残る一文。それをふくらませて、時代の変革を改暦に象徴するように、太平の時代を前にした江戸時代初期の激動を描く。
ちょうど映画が公開中で、同時代をあつかった『光圀伝』も出版されたばかりの、著者が初めて手がけた歴史小説。ただし、史実を題材にすること自体は中世欧州を舞台にした伝奇TVアニメ『シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜』や、関連するメディアミックス作品ですでに行っている。綺羅星のごときキャラクターが舞台から一挙に退場していく終盤など、構成に共通しているところも多い。


作品自体の感想としては、分厚い頁数からは想像できないほど、驚くくらい薄味だった。悪いという意味ではなく、とにかく読みやすい。
主人公の基礎をなす囲碁和算も、改暦の比喩表現としてのみ重視され、それぞれ過程の詳細はつまびらかにされない。複雑な数式や細かな資料を並べることなく*1、キャラクターの動きに合わせて舞台状況や当時の風習を説明し、現代との比較で当時の技術や数学の進み具合が表現された。本因坊道策や水戸光圀といった有名な人物から、渋川春海の近辺で助力した人物まで、それぞれの魅力が主人公の目を通して等分に描かれる。
成果を上げたり失敗したり、出会ったり別れたり、状況が動く場面ばかりで構成していたことも、中だるみを感じさせない。しかし同時に、全体の大きな起伏も感じにくい。中盤の挫折は、成功をつかみかけていただけに悪くないのだが、地の文で明確に前振りしているだけに、身構えて読んでしまい、書かれている内容ほどの驚きはなかった。これも、良くも悪くも読者がストレスを感じない作りだ。


それから、気になったところを二点ほど。
改暦勝負を決着させた結末は、ほとんど物量にたよっていて、物語としては伏線の妙などが感じられない。あたかも決まった勝負の過程をふりかえって説明する程度の熱量ですまされた。学究への興味関心しかなかった主人公が政治劇を行ったという変化があったくらい。せめて、大和暦を衆目に披露する場面を文字数を費やして華々しく描けば、また異なった印象があったかもしれないが。
また、主人公を導いた水戸光圀会津藩主について、その殺人事件や一揆鎮圧処刑に言及することは誠実ではあるが、批判性が不十分だと感じた。しかも、生類憐みの令のような徳川綱吉の政策を「極端な弱者救済」*2とだけ評し、民衆の反感をかったと説明しており、比べると公平性を欠いている。他に、もっと上手い表現や処理の仕方もあっただろうと思うのだが。

*1:一つの見所である和算など、図版が小さかったり文章量が足りなかったりと、出題意図そのものが理解できないところもあったくらい。

*2:468頁。後日談をざっと並べる結末部分なので、あまり長く描写できなかったことは理解できるが。また、未読だが内容紹介を読むと、このあたりの描写は『光圀伝』で補足されているようだ。