法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

尼港事件についての秦郁彦見解

シベリア出兵が続いていた1920年樺太北部の対岸にあるニコラエフスクパルチザンと日本軍が衝突し、民間人や領事をふくむ日本人が虐殺された。尼港事件と呼ばれ、当時は通州事件が「第二の尼港事件」と呼称されたくらい、日本の反ソ感情を煽った出来事だった。
それでいて、当時は被害者遺族に対して義損金が支払われたのみで、公的支出はされず、生存した被害者には募金等による民間支援しかなかったという*1


この尼港事件に対して、2000年に出版された文春新書『昭和史を点検する』*2を斜め読みしていた時、参加していた秦氏が言及し、批判的に論評していることに気づいた。
それは、休戦していたパルチザンを日本軍部隊が勝手に攻撃して敗北し、その際に日本人が虐殺された無意味な戦闘という見解。加えて、そのような経緯を無視してソ連への憎悪を煽る世論形成に利用されたと指摘していた。単純に日本人虐殺の責をソ連やロシアに対して求める立場とは、一線を画している。秦氏は明らかに右派として論じつつも、太平洋戦争へ続く日本軍の暴走をいさめるという立場として一貫している。


それでは秦氏の見解にどの程度まで妥当性があるだろうか。他者の歴史研究を見ると、尼港事件に対する評価は定まっているとはいいがたいようだ。たとえばネット上で様々な辞典の記述を読み比べられるサイト「コトバンク」を見ると、出典によって位置づけに大きなぶれが見られる。
尼港事件(にこうじけん)とは - コトバンク
たとえば「世界大百科事典 第2版の解説」では下記の通り。どう読んでも日本語の文章としてこなれていない。

シベリア出兵中の1920年3〜5月に尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した事件。同市はソ連(現,ロシア)極東のアムール川河口に近い漁業都市で日本領事館も置かれていた。日本軍はここを1918年9月占領し,20年冬には日本人居留民約380名,陸軍守備隊1個大隊,海軍通信隊約350名がいた。たまたま同年1月トリャピーツィンYa.I.Tryapitsinの率いる約4000名のパルチザン部隊が日本軍を包囲した。

朝日新聞掲載「キーワード」の解説」では下記の通り、ここでは最もパルチザン虐殺を批判する論調になっている。

ロシア革命後の1920(大正9)年3〜5月、アムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で、駐留していた旧日本軍や在留邦人約700人、資産家階級のロシア人数千人がバルチザン(不正規軍)に虐殺された。旧ソ連政府は事件後、責任者を処刑。賠償を求めた日本は北樺太を保障占領した。
( 2007-03-09 朝日新聞 朝刊 熊本全県 1地方 )

「百科事典マイペディア」は下記の通り、引用された範囲では、事件における虐殺より前段階の衝突に重きを置いている。

シベリア出兵中の紛争事件。1920年2月アムール川河口ニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)の日本軍,邦人は包囲したパルチザン部隊との間で降伏協定を結んだが,3月日本軍はそれを破って奇襲,敗北し,122名が捕虜となった。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。

他に、「デジタル大辞泉」等は「日本の世論は激高」といった表現を使い、その後の歴史に与えた影響を重視していた。
また、YAHOO!百科事典に掲載された「日本大百科全書」の記述は、秦見解に近いと感じる。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江オホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。

さほど激しい議論の対象とならなかっただけに評価が定まらず、事実関係は見解に大きな差がなくとも、観点によって筆致が大きく変化する事件といったところだろうか。

*1:ただし「尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年」という論文を読むと、日本政府の被害者への冷たい対応があったことは確かとし、「日本政府の賠償責任否定が前提にある」と評価しつつ、後年に再度の被害者救援策がなされたことを論じており、込み入った状況でもあったようだ。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007522679

*2:座談会形式で昭和史を追っていく内容。秦郁彦半藤一利保阪正康という特定の歴史認識でよく登場する面々に加えて、坂本多加雄が参加している。坂本多加雄は2002年に亡くなった政治学者で、つくる会の理事もつとめていた。