法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

大本営陸軍報道部の平櫛孝少佐についてのメモ

まずは、1942年という太平洋戦争なかばの『少年倶楽部』で、子供達と座談会をしている記事について紹介したエントリ。
大東亜戦争はどうして起こったか 少年倶楽部 | 郷愁倶楽部
昭和17年12月号ということで、まだまだ子供の観点からは楽観的になってもしかたないかもしれない。とはいえ後の歴史と考えあわせるといたたまれないし、被害者意識にとらわれて他国への侵攻を正当化している様子も悲しい。
平櫛少佐は、当時すでにアメリカが喧伝を始めていた航空戦力について語っている。一定の脅威とは見なしているものの、やはり現代の感覚からは楽観論でしかない。そして前後するが、記事の序盤で、日中戦争におけるアメリカの「いじわるなしうち」「じゃまだて」について、「私自身も、この体で、そのくやしさを、ひしひしと味わったことがある」と語っている。


この記事の後、平櫛少佐はサイパンへ行き、生還して1980年に亡くなった。大本営発表を内側の視点で語った『大本営報道部―言論統制と戦意昂揚の実際』といった著作も残している。
その平櫛少佐がサイパンでどのような行動をとっていたか、興味深い資料を紹介している頁を見つけた。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akashids/ryokou/saipan/saipan4.html
平櫛少佐自身による『サイパン肉弾戦』では、南雲中将以下の自決に立ち会っていたという。情緒的な文章でくわしく描写されている。

「よろしゅうございましょうか」
高級副官の声。
「どうぞ」
南雲海軍中将の声。
三人は軍刀を逆手に持ち、日本の古式にしたがってみずからの腹部にあてた。
高級副官の右手が挙がった。
拳銃の鈍い銃声が三発・・・。
一人の提督と二人の将軍は後頭部を撃ちぬかれた。三つの肉体はどうと前にうつぶせた。
専属副官の構えたままの拳銃の銃口から、白い硝煙が風にゆらゆらとたちのぼっていった。今逝った三つの将星の霊が、この硝煙に乗って 昇天していった。
サイパンの悲史はここに終わりをつげた。

ところが横森直行『提督角田覚治の沈黙―一航艦司令長官テニアンに死す』によると、この時の平櫛少佐はアメリカの捕虜となっていたという。

■真実は如何に?
南雲中将たちの最後は、いろいろ語られているが、上記の平櫛孝元参謀が立ち会っているならば、これが真実だろう。
しかし、提督:角田覚治の沈黙」横森直行(著)によれば以下↓のように、平櫛孝参謀は早々に捕虜となり、米軍に協力した裏切り者として実名で書かれている。
私が見た本や資料の中で、平櫛孝参謀のことについて書かれた記述はなく、どちらが事実なのか分からない。横森氏の勘違いと思いたいのは山々だが・・・。

日本陸軍誉四十三師団参謀・平櫛孝少佐


「提督:角田覚治の沈黙」横森直行(著・元一航艦飛行士)より引用↓


152頁


平櫛孝少佐について


テニアンは7月24日(サイパンは7月7日玉砕)からの攻撃となった。サイパン戦で自信を付けた米軍は、グアムとテニアンと同時に攻撃を開始した。テニアン上陸戦の準備は、例によって艦砲射撃と爆撃とを連続し、その抵抗組織を根こそぎ破壊して、サイパン戦よりも迅速かつ容易に占領しようとした。
ところが、これに協力した日本陸軍誉第四十三師団参謀・平櫛孝少佐がいたとは後に米軍将校から聞いたが、ただ彼が米軍サイパン上陸後、まもなく捕虜となったことは事実で、他の捕虜とは別扱いでピカピカの軍靴をはいていたのを見た目撃者は多くいる。
彼は一時は大本営の報道部員として国民に広く知られた人だけに特別の待遇をされ、米軍情報将校の話題になったことは信じられない事実だ。
南洋興発の中島文彦氏の記録によれば、19年6月8日、平櫛少佐は、誉四十三師団長:斉藤義次中将、備三十一軍参謀長:井桁敬二少将と、サイパンからテニアンに飛来し、玉砕戦の始まる三日前のテニアンの防備を完全に調査している。帝国陸軍にもひどい参謀がいたものだ。

しかも上記のように米軍に協力したため、特別扱いを受けていたともされる。いかにもありそうなことだが、今のところ横森少尉一人の証言しかなく、即断はさけるべきだろう。広報担当者を米軍が特別待遇したゆえに誤解された可能性もある。