法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『メメント』

弟の短編小説を原作にした、クリストファー・ノーラン監督の代表作。2000年に米国で公開された。
10分間しか記憶を維持できない主人公が殺人事件を起こす冒頭から、10分ごとに時間をさかのぼっていくパートと、時系列にそって主人公の立場と設定を説明するモノクロパートを交互に描き、事件の経緯を解明していく。


公開当時は小刻みに記憶を失っていく設定と、そうして失われた過去が小刻みに解明されていく興奮、それらを独特の構成で効果的に演出したことで評価された。
しかし監督が『ダークナイト』や『インセプション』を手がけた後で見ると、一貫性が感じられる。その一貫性とは、方便によって真実が隠されることで、登場人物が主観的に幸福をおぼえて、そのまま結末を迎えるという展開。
以下、各作品の結末にふれながら説明する。
ダークナイト』は、「ホワイトナイト」というヒーロー像が市民に与えられ、主人公も愛されていたという方便を信じたまま、物語を閉じた*1
インセプション』は、父に愛されていたという幻想を主人公に与えられた標的はそれなりに幸福そうで、主人公も夢か現か不明の世界で幸福なまま物語を閉じた*2
むろん、方便を全肯定するだけではドラマとして成り立ちにくい。『メメント』では陰惨な復讐劇を永遠に続けることが主人公の手にした幸福であり、『ダークナイト』では市民に献身したヒーローが自ら悪名を背負って追われる立場となり、『インセプション』では追い続けた妻の幻を失った。方便の代償として失われるものの大切さを入念に描くことで、物語に葛藤が生まれる。
そういう意味で考えると、仮想現実テーマ作品で多数の先例がある『インセプション』の結末に、ドラマ上の必然性もあるとわかる。つまり、妻の幻だけでなく、明瞭な現実感覚も幸福の代償として失ったということが、葛藤をかかえたまま物語を閉じて、深読みしたい観客へ考察をうながす。


そして、方便で物語が予想外に駆動していくという作風から考えると、『メメント』の主人公を冒頭の殺人事件にいたらせたメモについて、インターネットでよく見かける解釈は、誤っているように思える。監督のインタビュー他、きちんとした根拠や傍証を持っているわけではないので、私も断言はできないが。
メメント 解説とレビュー | :映画のあらすじと詳しい解説、批評

 しかも、『殺せ』とメモするのではなく『こいつのウソを信じるな』と書き込み、テディの車のナンバーを"THE FACTS 6"と刺青することで、わざとターゲットを曖昧にし、テディをターゲットに、次なる復讐をはじめることにしました。

ノーラン監督作品の主人公は、方便を信じて幸福をおぼえる。つまりテディを復讐の対象として殺すような、はっきりした殺意は二の次ではないだろうか。映画の描写を見ても、中盤で真実を教えた男の言葉を次からは信じないようメモを残しただけ。テディを殺すにいたった展開が主人公の意図と確定する場面は見当たらなかった。
メメント』は、真実を教えることもある唯一の男が消された場面で始まり、消された男が真実を教えられる唯一の存在であったことを確定した場面で終わる。真実という枷を失って、意図せず偽りの標的を選ぶ復讐劇が半永久に続く状況が、意図せず生まれてしまう。個人の意図は可能な限り小さいと解釈すれば、より綺麗に物語がおさまるのではないだろうか。