法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『つくられる古代史―重大な発見でも、なぜ新聞・テレビは報道しないのか』原田実著

著書がSNSコミュニティをふくむ様々な媒体で発表した文章をまとめ、2011年に新人物往来社から出版された。古代史にまつわる問題や争点や自説を並べていきながら、過去をまなざす現代人という立場への自覚をうながしていく。
通して読むと、テーマに関係する話題でさえあれば何でも集め、雑多にすぎる感があった。まとまりが薄くて目新しさがないのは、総まとめ的な著書としても問題だろう。近現代における古代史の受容という観点で書かれているため、2ちゃんねるスレッドのエイプリルフールネタや、個人ブログの見解まで引かれており、やや面食らったりもした。


とはいえ内容は読みやすく、重要な提言も多い。
古代遺跡が、マスコミによって邪馬台国あつかいされたり特別な都市あつかいされたり。研究者側も古代遺跡が潰されないために、強い意味づけに加担したり。そうした注目が集まらない遺跡は、逆に放置されたり、工事を優先して潰されたり。そもそも、日本における遺跡発掘の大半が工事に先立つ「緊急発掘」であり、「記録保存」という呼称で出土品等の記録だけ残して潰されたり、「埋設保存」という呼称で道路や建築物で上を覆われたりすることが多い。偽史東日流外三郡誌』が注目されたことや、「神の手」による発掘捏造が見逃されていたことも同じ背景がある*1。むろん広報の努力を全否定はしておらず、たとえばシュリーマンの自己宣伝を「フィクション」*2と指摘しながら考古学全体としては功績が大きかったと見ている。
つまり古代遺跡の重要度は、それをまなざす現代人の価値観と注目度に左右される。そして、価値観と注目度という点から、フィクションが混入しやすい。この書籍では特に、戦前の皇国史観から戦後の皇国史観批判、そしてバブル経済とその崩壊という、学問外の社会変動によって古代史の受容が変化したことを指摘している。古代史のあつかいをめぐる近現代史としても興味深く読むことができた。


また、戦前日本では歴史学が社会的に抑圧され記紀神話を否定できず、その代わりに植民地朝鮮半島では歴史学者が活動できて檀君神話も歴史として否定でき、それが戦後日本における歴史学の「シミュレーション」*3となった。立場性から離れた場所では誠実な活動ができること、その立場性から離れられる背景に問題が存在しうること、そうした普遍的な問題意識も読み取れた。
ただし著者自身は近年の朝鮮半島における檀君神話復権の動きに警鐘を発しつつ*4、植民地時代の歴史研究を「檀君実在の否定は日本による朝鮮統治を円滑に進めるうえでも必要だったわけである」*5と評する以上の踏み込みはしていない。統治のために現地神話を否定するという政策で、GHQ朝鮮総督府と重ねている皮肉くらいか。


全体として、歴史学の道を紆余曲折しながら進んだ*6ナショナリスト*7という著者のプロフィールが、良い意味で出ていると思う。告白すると私自身の価値観もナショナリズムと親和性があるため、貴重な古代遺跡が軽視されている社会状況への警鐘には、大いにうなずけた。
また、話題性と学問と観光資源という異なる価値観が連携して、価値がふくれあがったり相対的に価値が下がったり。そうして地方と都市の相補で遺跡の価値が生まれていくという指摘も、重要な観点と思われる。

*1:同様の問題点は発掘捏造をスクープした毎日新聞社の書籍でも指摘されている。感想エントリと、トラックバック先のApeman氏エントリのコメント欄を参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080310/1205199358

*2:86頁。

*3:78頁。

*4:82頁。

*5:81頁。

*6:大学で明確に史学をおさめたわけではなく、仏教学科卒。そしてオカルト系出版社から出発し、『東日流外三郡誌』を擁護し続けている古田武彦の大学助手ともなった。この書籍では古田武彦を批判視しつつ、かつて関係があったことは明記されていない。http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/profile.htm

*7:この書籍の問題ではないが、たとえば南京事件否定論を公言していた問題などは、ここで改めて指摘しておかなくてはならないだろう。http://d.hatena.ne.jp/toroop/20090601/p3等で先行して批判されている。邪馬台国の九州説と畿内説の論争で双方に妥当性を認めるような態度は、この書籍では著者が九州説論者を自覚しているゆえ誠実な印象を与えるが、南京事件のような歴史認識問題でも同様の中立を形式的に装うだけでは偽史に加担しかねない。