法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

菊池誠氏がSF読者としてダメだと思ったことはある

菊池誠氏は科学者としてダメというが、どの辺がダメなのか誰か説明して欲しい - ARTIFACT@ハテナ系
「科学者として」というkanose氏の本題については、そう評価されるようになった文脈についての推測はあるが、きちんと状況を追っているわけではないので確信は持てない。たまに問題を感じる発言が目に入ることはあるものの*1、断片的なつぶやきがほとんどだから、前後を読まないといけないし、後に訂正されても気づきにくい。ただ個人的な心象をいえば、特筆されて批判されるほど問題そのものが多い「人」*2ではないと思う。
ただ、問題が少ないことは批判されない絶対条件ではない。たとえば60点以上で合格するテストで90点を出せば立派だろうが、それが100点の正答として扱われては、批判される。正答として扱われることが90点を出した者の責任でなくても、正答ではないことを周知させようとして、10点分の間違いは指摘されるだろう。
必ずしも専門分野ではない領域でも注目され、矢面に立ち、あるいは立てられてしまっている。「ダメ」と呼ばれている学者も菊池氏一人ではないらしいのに、kanose氏が立てたエントリでは菊池氏一人が対象になっていること自体が、その一例だ。これが批判が集中する結果になっているのではないかな、と思っている。


一方で、瀬名秀明との論争について、熱心に追っていたわけではないSF読者なりに知っていた経緯があるので、少しばかり補足したい。

この瀬名氏の文章は読んだことがありますが、やはり態度問題ということなんでしょうか。嘲笑が品のいい行為だとは思いませんが「嘲笑は人の心を傷づけるから、どんな時でも人を嘲笑してはいけない」という瀬名氏の発言も随分と大きく出たなと思います。瀬名氏は人に対して絶対嘲笑したことないのかな?という。

コメント欄で2ちゃんねる経由で瀬名発言を孫引きしたエントリ*3が紹介されているが、論争全体では「態度問題」で終わる話ではなかった。
引用された瀬名発言だけでは一方的に読者の態度を作家がくさしたように見える。しかし実際は作家と読者の間で論争が行われており、読解が正しいか否かにもふみこんでいた。
2ちゃんねるに転載された瀬名氏の文章は、下記エントリの瀬名発言引用部分から引いたものだろう。菊池批判部分の引用範囲が同じで、「(略)」の位置も同じことから、そう推察できる。
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_bab5.html

瀬名は「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」という言葉にこだわっているようだ。私は『パラサイト・イヴ』は読んでいないが、おおよその内容は知っているつもりである。「ミトコンドリアを擬人化している」という批判は、おそらく正当なものだろうと思うし(村上龍浅田彰も同じような批判をしていたはずである。別に村上と浅田が読み手として信頼できるというつもりはないが)、その表現として「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」という言い方をするのは、多少口汚くはあるが、批評の範囲内のものとして許されると思う。

こだわりとエントリ主が指摘している「擬人化」が、まさに論争の中核だった。
当事者である菊池氏が2008年に当時をふりかえったエントリでも、そう明記されている。
kikulog*4

議論になった点は単純なことで、『パラサイト・イブ』はミトコンドリアを擬人化して描いたかどうかである。多くの読者が「擬人化している」と読んだ。僕もそう読んだ。擬人化しちゃだめじゃん、という話が僕の掲示板で話題になった。僕も擬人化しちゃだめじゃん、と書いた。

この「だめじゃん」という感覚は、私もSF読者として見当がつかなくもない。私個人の『パラサイト・イヴ』に対する感想とは異なるが*5
しかし、この批判について瀬名氏から直接的な反論があったという。

ところが、瀬名さんによれば(なにしろだいぶ以前のことだけに、ここの記憶があいまいで、瀬名さんが公開の掲示板に書かれたのか、私信でいただいたのかおぼえていない。掲示板だったことにしてここに書きます。私信だったらごめんなさい)、「擬人化しないように注意を払って書いた」のだという。だから、僕らの批判は的はずれである、と。文章をよく読めば、擬人化していないことがわかるはずだというわけ。


この話で、いくらか腑に落ちた。「擬人化してないよ」と言われて、読み返してみると、たしかに叙述としては擬人化を注意深く避けていることが確認できる。なるほど、それが注意を払った点である。
勝手な言い方ではあるが、ここで瀬名さんが追求したものは、実はクリスティ的なフェアネスだったわけだ。あるいは、その意味でのフェアネスを追求した格好の例が『獄門島』のあの有名なセリフであるといえば、通じるだろうか。『獄門島』を最後まで読んで、「あのセリフはアンフェアじゃん」と思い、読み返した人は多いのではないだろうか。そして、「やられた」と感嘆したはずだ。あれがミステリにおけるフェアな叙述である。叙述トリックの一種といってもいい。

作者が読者へ直接的に応答することの可否はさておき、ここで菊池氏は自身の読み落としを認めたと私は解釈した。
だが、菊池氏は続けて「だめじゃん」という評価を継続した。

しかし、ではなぜ読み返すのかと言えば、実は作品が「本格ミステリ」だからである。僕たちは『パラサイト・イブ』を叙述トリックものの本格ミステリとしては読まなかったから(著者もそんな期待はしていないはず)、「擬人化してるじゃん」と思って最後まで読んだら、それっきりである。あとになって「擬人化してないよ」と言われても、「そんなのわかるわけないじゃん」という感想しか出てこない。一読目ではっきりわかるように、もっとあからさまに書け、と文句を言うことになる。
最初に読者に「擬人化している」と思われたら、それでおしまいなのだ。そして、「擬人化している」と思うか思わないかは読者の勝手である。それが困るなら、作者がかなり「あからさまに」書かなくてはならない。
そこが、本格ミステリとの違いである。つまり、ここではジャンルが大きくものをいっていたわけだ。

 
これまた勝手な思いこみかもしれないが、他の作品でも瀬名さんはこのクリスティ的なフェアネスを重視している気がする。しかし、この手のフェアネスは、本格ミステリ以外ではあまり有効ではない。唯一、ハードSFの一部に有効だと思う。本格ミステリとハードSFの類似性については、いずれどこかでまとめて書いてみたい。いや、ハードSFに有効ってことは、ファンタジーにも有効なのかな。

私は、上記のようなジャンルの特性を根幹とした反論に対し、どうにも承服できなかった。ミトコンドリアが擬人化されているか否か気にする基準で小説を読み、それに基づく評価を公表したならば、その評価も独立した一つの表現として、ただ感覚のまま読んだ感想より厳しい評価にさらされるべきだろう。
ていねいに叙述し、擬人化しているように感覚では読み取れつつ、精読すれば擬人化を注意深くさけるような技法がほどこされているなら、それは誤読した側が過ちを認め、逆に賞賛してもいいのではないか。
小説という媒体ではSFより本格ミステリを好んでいたという私個人の感覚かもしれない。それでも、『パラサイト・イブ』をSFという観点から読んでいたなら、「ハードSF」に限定せずとも同様に叙述の精妙を読むことは可能だったたろう。

人称の仕掛けだけなら、『パラサイト・イブ』もそうだったという解釈もできるのだけど、残念ながらあちらは全体が本格ミステリの体裁になっておらず、ホラーになっていたため、人称の仕掛けが読者に通じなかったわけだ。

この点についていうと、本格ミステリ読者としては、ホラーやサスペンスは意外と近接したジャンルと感じている。伏線や誤誘導で読者を導いて結末へ収束させることを重視する構成は、物語の進行にともなって展開させていくSFよりも共通項が多いと、私は考えている。
菊池氏はコメント欄において、下記のように自身の影響力についてふりかえっていた。

僕も自分が急先鋒だなどと自分で思っていたわけではないので。
たしか、特にそれについて言及するメディアがあったわけでもなくて、掲示板に書いただけじゃないかな。
SFマガジン』の年間ベストにコメントしたかもしれないですが、ほとんどの人の目にはとまらなかったでしょう。『ヒュウガ・ウィルス』を褒めて、『パラサイト・イブ』を批判したのだったかもしれません。

今になって読むと、村上龍『ヒュウガ・ウィルス』との比較評価で、不思議なめぐりあわせも感じるが。


もちろん読者には誤読の権利がある。誤読に基づいた批判も、作者の表現に問題があったためという考えも一つの原則として正しいだろう。
しかし最近でも、2008年の『黒百合』をめぐる論争や*6、2011年に『これはペンです』が芥川賞を落選した時の疑惑のように、誤読した側も責任を問われることがある。
ちなみに『これはペンです』のについては、菊池氏も下記のように言及していた。
芥川賞受賞作ナシ: 円城塔さん作『これはペンです』は、“自明の理の記述が不正確”なのか - Togetter

村上龍円城塔作品を「DNAについての記述が不正確だからよくない」と言ったのだから、どのように不正確かをきちんと言うべきだと思う。村上龍のほうが円城塔よりもDNAについて詳しいというのはちょっと納得いかない
kikumaco 2011/07/20 22:04:17


菊池氏の『パラサイト・イヴ』評が賞の選考ほど重かったとは思わない。しかしながら、単なる一読者というには、自己認識に反して影響が大きすぎた。
その傍証として、2001年に行われた瀬名氏の講演会で、読者に対する応答として述べられた部分を一部引用する。
1.【講演内容】24/45 -SFセミナー2001瀬名秀明講演録-*7

パラサイト・イヴ』は一度として版元も僕もSFとして売った記憶はありません。常にホラー小説、でなければモダンホラー小説だと僕らはいってきたわけで、帯にもホラー小説と謳っている。SFとして宣伝したことは一度もないんです。「SFとして宣伝されれば、あれはSFではない、と騒ぎたくなるのも無理はない」とおっしゃるのですが、どこか別のところでそういう評価を見たんでしょうね。「SFマガジン」とか、そういうところで「これはSFである」と評価されたのをご覧になってのことなのかもしれません。この方は、怒りの矛先を決めかねているように思えます。『パラサイト・イヴ』をSFだと評価した人たちに向けて怒りたいのか、作者である僕に怒りたいのか、あるいは『パラサイト・イヴ』をSFだと思っているらしい世の中が無念で悔しいのか。たぶん、その全部がない交ぜになった感覚なんでしょう。ただ、作家や出版社側からすると、書評をコントロールすることはまず不可能です。そこまでこちらのほうでコントロールしなければいけないのだとしたら、正直いってしんどいなという気はします。

これは読者との質疑応答ではあるが、その読者が意見に「菊池誠さんが発言しておられたことに心から共感しました」と名前を出しているように、これも菊池氏と瀬名氏の論争が尾を引いたものといえるだろう。
くわえて、作品がどのジャンルに位置づけられるかは、作品単体や作家や出版側だけで完結するわけではないことの証明といえるだろう。
つまるところ、これも90点の回答が100点として周囲にあつかわれている問題だったのだろうし、菊池氏はそういう立場になりやすい人徳の持ち主ということかもしれない。


最後に、そういう一作品の一部の読解について語っている私自身について心象をいうと、立ち往生する弁慶のように全身へブーメランが突き刺さっている。

*1:https://twitter.com/kikumaco/status/125061549076381696のように、自身で「顰蹙を買った」とふりかえっている発言など。

*2:専門外の知見についてもふくめた評価、の意。

*3:http://d.hatena.ne.jp/kajika_eps/20120621/p6

*4:この菊池氏のエントリに言及したブログもあり、そのコメント欄へ菊池氏が書き込み、いくつか瀬名氏の主張へ反論していた。http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-03-16-1

*5:面白くはあったが、恐怖の演出が女性嫌悪にたよっていると感じられ、いくばくかの嫌悪感も持った。『リング』と合わせて、Jホラーがミソジニーの怪物に満ちた発端となったのでは、と思っているくらい。

*6:http://d.hatena.ne.jp/bookreviewking/20090101/1230793859

*7:太字強調は原文ママ