法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

大阪の政治に文化の重要性を訴えるならば、固有の価値より共有の価値がいいのかもしれない

橋下大阪市長のクラシックと文楽の件。アレ,「橋下には文化/クラシック/文楽... - 露井有悟 - 露井有悟 - はてなハイク

「橋下には文化/クラシック/文楽の価値がわからんのか!」で攻めると,「それらの価値はわからないけど取り敢えず守った方がいいんじゃないかと思ってる人」が離れるので,「あなたに価値がわからない文化であっても何らかの意味はあるはずだから残しておいた方がいい」くらいに留めておくのが無難なんじゃないですかね。

説得の技法として価値を訴えるべきでない、みたいな方向で説得しようとすると、市長から価値がないといわれたような文楽ファンにとってもつらいと思う。


ただ、id:Mukke氏の問題意識には、一定の妥当性も感じる。
たとえば、同じように価値をうったえるにしても、他の文化と比較して独立した固有の価値があるとうったえるよりは、様々な文化との関連性をうったえた方が、理解されやすいとはいえるかもしれない。
たとえばクラシック音楽は『銀河英雄伝説』や『デジモンアドベンチャー劇場版』*1のようにアニメBGMとしても多用されている。文楽は実写に使われることも多いが*2、アニメでも『イノセンス』等に引用されている。最近に人気な『這いよれ!ニャル子さん』だってクトゥルー神話の翻訳と継承があった上で成り立っているといえる。
また、文化や立場を分断して、相互に憎みあわせるような政治手法への、根本的な危機感も私にはある。


そうした引用元として価値を見いだすことを美しく言いかえると、「教養」になるのかもしれない。
ここで少し脇道にそれるが、アニメやマンガが古典的な芸術を引用しながら、アニメやマンガのファンが現代アートに引用されることを嫌悪するのは、現代アートが引用元ではないからだろう。アート側からアニメがアートを剽窃しているという反発が、カオスラウンジが話題になった時期にあったが、それは現代アートがアニメファンからアートと見なされていないためであって、むしろ古典的なアートには権威*3を感じているアニメファンが多いのではないかと思う。
むろん現代アートにだって価値はあるだろう。実際にコンセプチュアルアートを展示している美術館へ行くと、遊園地みたいでけっこう楽しい*4。また、「教養」が引用元、あえて悪ぶれば剽窃の対象という意味を持つならば、私のクラシックや文楽に対する話法には多分に失礼といえる。
だから、クラッシックや文楽が他の文化に引用されているような教養であると主張する場合は、「引用元」となりにくい他の文化にももちろん価値があることは留意しておく必要があるだろう。ここで、「あなたに価値がわからない文化であっても何らかの意味はあるはずだから残しておいた方がいい」という主張に妥当性がある。説得の技法というよりも、むしろ原則的な妥当性だ。


最後に、橋下徹市長本人については、説得のしようもないという感じはある。それを無定見に報じたり、支持する人々に対しても難しいという感じがある。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120421-OYT1T00197.htm

約1時間、視察した2人は報道陣に対し、世界に貧困や紛争に苦しむ子どもたちがいることを紹介した展示を例に挙げ、「社会にゆがみがあることを列挙しているが、まずは頑張っている子どもたちがいることを伝えるべきでは」(橋下市長)などと指摘した。

上記のような発言が堂々とメディアに載りながら記事内に批判的な表現がなく、「批判も出そうだ」といった自由新聞間接話法もなく、批判的な知識人のコメントも存在しない現実に、暗澹とせざるをえない。
もちろん、実際に人権の大切さを訴えられているか問い続けることは重要だ。その状況によっては公金投入停止という選択肢も全否定はしない。しかし、この種の教育施設については、別の団体に委託するにせよ、一定の公的支援が求められ続けることはいうまでもない。そもそも目に見える費用対効果や収入で語るべき施設ではない。
そして、記事で紹介されている「指摘」の理屈は醜悪ですらある。個人の頑張りによって消えないからこそ、「社会」のゆがみなのだから。

*1:どちらもオーソドックスな曲ばかりが選ばれているが。

*2:『東亰異聞』のように小説で使われる例も記憶に残っている。

*3:と裏腹の反発。

*4:小学生みたいな感想。