『クラムボンはわらつてゐたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『それならなぜクラムボンはわらつたの。』
『知らない。』
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまつたよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べつたい頭にのせながら云(い)ひました。
『わからない。』
『クラムボンはわらつたよ。』
『わらつた。』
にはかにパツと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢のやうに水の中に降つて来ました。
波から来る光の網が、底の白い磐(いは)の上で美しくゆらゆらのびたりちゞんだりしました。泡や小さなごみからはまつすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。
魚がこんどはそこら中の黄金(きん)の光をまるつきりくちやくちやにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又上流(かみ)の方へのぼりました。
「クラムボン」は謎めいたまま死をむかえる存在として、過去から少なくない読者の注意をひきつけてきた。
一例として、インターネットには『やまなし』に特化したサイトがあり、「クラムボンの正体」というページが独立しているくらいだ。
宮沢賢治/やまなし
http://www.yamanasi.net/kuramubon.html
諸説がならべられているが、以前に私が思いついた説が掲載されていない。「光説」が近いくらいか。
泡説ほどではないが、子供たちがしばしば出す答えの一つ。「魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるつきりくちやくちやにして」という記述に注目すると出てくる説でもある。クラムボンは魚の行き来に影響を受けており、その点でここの記述と一致する。
作中に「日光の黄金」という表現もあり、つまりは陽光であろうというわけだ。
手塚治虫の作品に『やまなし』に題をとった短編漫画がある。題名は、そのまま『やまなし』という。
戦時中に文化が抑圧されるさまを描くために、作中演劇として上演される宮沢賢治作品と、その演劇を行っている子供達のドラマを上下段で並行して描くという、漫画技術的にも興味深い内容だった。
この手塚版『やまなし』でも、クラムボンの正体は不明確だ。ただ、作中演劇の白梅が出てくる場面に対応して、作中現実では満月が登場していた。その美しさが、「こわいよ、お父さん」という不安な子供の台詞を際立たせ、印象に残った。
以前に、地域文化を伝える報道番組で、「倉法師」あるいは「倉坊主」という言葉を知った*1。特定地域の古語らしいが、その時は聞き流して、印象に残らなかった。
前者について調べると、そのまま戦国時代に蔵を管理していた僧形のものという「蔵法師」が見つかった。後者は江戸時代の随筆『耳嚢』に出てくる妖怪へ、近現代になってつけられた名前らしい。だが、私の見た報道番組では、「月」の異名として紹介されていたのだ。
ここで、クラムボンの正体は月なのではないか、そう思ったわけだ。宮沢賢治が作中の名詞にエスペラントをはじめとした珍しい言葉のもじりを多用していたことは有名だ。月は光源となる存在で光説に通じるし、何より笑っていたのが一度死に、ふたたび笑ったという展開は、まさに月の満ち欠けではなかろうか、とも思えるのだ。
だが、私は宮沢賢治の専門家ではないし、自分でも自信をもって提示できる説ではない。
残念ながらインターネットで簡単に調べた範囲では、月の異名に「倉法師」といった言葉が使われているという話が見つからなかった。過去に見た報道番組も録画しておらず、手がかりが全くないありさまだ。
今のところ、あやふやな記憶にたよって連想した説でしかない。こうしてブログに書けば、都市伝説として誤った説が伝播していく危険性もある。だが、だからといって簡単に手ばなすことも難しい。そこで、このまま中途半端に温め続けるよりはと、披露させてもらった。
あくまで、専門家の諸説にはふくまれない、素人の思いつきとして読んでもらいたい。むしろ説得力ある批判が来れば、私としても安心できるし、ありがたく思うのだが。困った。
*1:「倉帽子」の聞き違いという可能性も考えたが、この言葉にいたっては検索しても見つからなかった。