法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

誰が「正しく怖がれ」といったのかという問題

指をひたしたラーメンの問題 - 法華狼の日記では語りきれなかった、Dr-Seton氏による改変ジョークそのものの話をしたい。主に、改変ジョークの批判対象は何かということを主軸として。


まずは「正しく怖がれよ」という台詞を発した配役についての注意。
比喩なのにわかりにくい 訂正あり - ならなしとり

放射性物質をまき散らしたのは国と東電に責任があることはいまさら議論の必要があるとは思えません。そういう意味では店員=国や東電であるならば一応理解できます。しかし、正しく怖がれと言っている人は国や東電ではないですよね?僕が記憶している中では、「正しく怖がれ」というフレーズを使いだしたのは菊池誠氏あたりが去年の夏ごろから使い始めたと記憶しています。しかし、菊池氏は原発推進に加担していたわけでもないし(だからエア御用なんて言われる)、被災地への補償はちゃんとやれと言っています。

id:salmo氏はわかりにくい比喩と評しているが、むしろ比喩だからこそ現実の何を置きかえたものか理解を要求されるため、わかりにくく感じているのではないかと思う。
実際の改変ジョークの台詞は下記のとおり。「店員」ではなく「別の客」が「正しく怖がれ」と主張している。
「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな - Dr-Seton’s diary

別の客「ちょっと、店員さんのいうとおりですよ。指を突っ込んだ影響なんて、ほとんど無視できます。指被害よりラーメンがムダになる方が問題ですよ。」
客「横から出てきて何云ってんの?アンタ、エア店員か?」
別の客「正しく怖れよ。」

別の客は店員の主張を肯定しているが、全面的な擁護ではなく影響はないという主張に対してのみだ。
つまるところ単純な誤読だと思う。水をひっかけるという後半の皮肉を「文字通り」に読むならば、ここも逐語的に読むべきだったのではないか。他者の「正しく怖れ」という台詞が店員側のそれになる「図式」を読み取っているところは、改変ジョークの正しい読解といえるかもしれないが。
仮に「原発推進に加担していたわけでもない」や「被災地への補償はちゃんとやれ」との齟齬を指摘したいならば、たとえば「エア店員」が明確に店員を批判したり、無料にするよう交渉する台詞もあるべき、といった程度になるだろう。


もう一つ、ツイッターから引用したという[twitter:@chronekotei]氏の反論について、いくつか[twitter:@hietaro]氏のエントリから孫引きさせてもらう。
http://taizo3.net/hietaro/2012/03/post-701.php*1

ラーメンに指の問題は、よくある詭弁だな。
 
「正しく怖れよ」って、別に店員や店主の側が言っているわけではないから、まずここで当事者性のすり替えがある。これが一つな。
 
それに、別に問題は「ラーメンを取り替えてくれ」と謂う具体的な提言のステージにまで行っていない、これがもう一つ。
 
だから、噛み合った比喩としては、ラーメン喰っちゃった客に店員が「すいません、今のラーメンに指入れてお出ししてしまいました」と言って、客が「うわー、ぎゃー、死ぬー、今すぐ死ぬー」と騒いでいるので、隣の客が「いや、別に指入ってたくらいで死んだりしませんよ」と言ってる状況。
 
ほら、噛み合った比喩にしたら何と謂うこともない話になっちゃう(笑)。

この感想を読んで思ったのは、寓話としての出来と比喩としての出来は、重なりつつも同一ではないということ。
chronekotei氏の再改変ジョークで改変ジョークより噛みあっているのは会話であって、現状を置きかえた比喩としてではない。


先に私が改変ジョークから引用した部分は、最も会話として違和感ある流れだ。そういう違和感がジョークらしい乾いた笑いを生むとはいえ、「エア店員」という単語の登場も、「正しく怖がれ」という返答も、唐突きわまりないと感じられた。特に、ですます調を別の客がやめるのが早すぎる。同じように会話が成り立たない店員のそらとぼけぶりについては、一貫しているのでキャラクターとして理解できるのだが。
モデルになっただろう「エア御用」という単語は御用学者といった先行する表現を応用したものであろうし、現実の「正しく怖がれ」という言葉も対象が恐怖以外の反応をしていたなら異なる表現になっただろう*2。隠語として確立された後はともかくとして、初対面の二人がかわすべき台詞とは思えない。
自然な台詞回しを考えるなら、たとえば別の客に対する客の台詞は「アンタ、店員の味方をするのか?」といったあたりになるだろう。その場合、別の客の返答も「いいえ、店員さんの理屈は正しいですが、指を入れたことは本当なら問題だと思います」といった台詞に繋がっていくだろう。まだしも会話としての自然さは増すと思うし、これはこれで一つの現状を拾った比喩になる。


しかし現実の一側面では、「エア御用」という言葉も、「正しく怖がれ」という言葉も、おそらくは当初の意図を超えて一人歩きを始めている。むろん多くはインターネットの狭い領域での流行だろうが。
「エア御用」はインターネット上で多用されているので簡単に見つかるだろうから、ここでは「正しく怖がれ」という言葉の用法について極端な論者を紹介しておこう。
「日本人は原発を正しく怖がれていない」保守論客が左翼批判│NEWSポストセブン

長谷川三千子埼玉大学名誉教授)
核兵器への転用を含む原子力技術は日本が今後も世界に伍してやってゆくために不可欠。ただし、より徹底した安全対策が前提。プロ左翼によるイデオロギー的『反原子力』、それに対抗するおためごかし的宣伝という不幸な構造が、健全な原子力政策(いわば「正しく怖がる」ことのできる政策)を阻んできた」

原子力政策の不健全性の責任を実際に政策を動かしていたわけでもない「プロ左翼」に分担させようという言説は、責任転嫁に他ならない。扇動的な雑誌とはいえ、仮にも商業週刊誌の記事だ。インターネットで個人間が行っている論争よりも広く読まれたのではないかと思う。
むろん保守派や原発推進派が全て同様の主張を行なっているとは思わないが、原発政策に問題がある責任を反原発運動に負わせようとする態度は他でも見られたことだ。「原発反対派のせいで福島第一原発を更新できなかったため、事故が起きた」というデマまで流れていたこともある。
ず's - デマの検証サイト一覧
2011-03-16 - ▼CLick for Anti War 最新メモ
ちなみに現状の文脈で正しく怖がるという言葉を使いだしたといわれる菊池教授だが、別アカウント[twitter:@kikumaco_x]において、「正しく怖がる」という言葉に対し「行政側やそれに近い科学者」*3が用いているため評判が悪いという評価もしていた。

つまり私が違和感をもった改変ジョークの流れだが、現状を置きかえた「比喩」としては必ずしも間違っていない。様々な「当事者性のすり替え」が現実にあり、噛み合わない議論があちらこちらで起きて、違和感を生んでいる。改変ジョークが切り取った現実も、確かに一定の影響力をもって存在していたのだ*4
実際、先ほど孫引きしたchronekotei氏も下記のようなやりとりをしていた。改変ジョーク中で発言者の切り分けができているか否かは私の評価と異なるが、ある主観で切り取った現実に近しいという評価は結果的にせよ共通している。

「エア御用」や「正しく怖がれ」という言葉が論争で説明なく使われれば、それぞれの隠語の生まれた文脈をよく知らない者にとって、改変ジョークの会話に対してと同じような唐突さを感じるに違いない。


こうして「エア御用」や「正しく怖がれ」といった言葉が当初の文脈すら離れて使用されれば、理解の断絶を深めるばかりで、対立する図式も固定化されていく。
むろん、言葉が文脈をはなれて一人歩きすることは、隠語の類いではよくあることであり、その意味においては今回だけ特筆すべき問題というわけではない。ゆえに、隠語が対話を阻害するからという理由だけでは、一律に使用をやめるべきとは思わない。あくまで今回に書いた範囲では、対立者との意思疎通を優先するならひかえるべきで、隠語を用いた意味も必要に応じて説明されるべき、といった一般論にしかならない。
また、色のついた表現だからといって個人が用いないことは自由だが、それならば逆に適切と思う場面で用いて意味を上書きを目指すことも間違ってはいないと思いたい。あまり表現に制約をかしたくないという私の個人的な心情もあるし、正義や民主といった言葉にも様々な色がついているため使えなくなりかねない。
今回に書いたこととは異なる理路で「エア御用」と「正しく怖がる」という言葉自体に問題があるとも思っているが、いい加減に話が長くなったので、それは次の機会に書かせてもらうことにする。


最後に、Dr-Seton氏を批判した全ての者が長谷川名誉教授らを批判する義務がにあるとは私は思わない。原則として、一個人にあらゆる問題を追及する義務はない*5。そしてそれを逆にいうと、Dr-Seton氏に対して差別だという批判にも不当なものがある。
原発事故を発端*6とする様々な出来事の中で、もちろん差別もまた喫緊の課題の一つだ。そもそも福島県原発があること自体が差別の一つの表れなのだから。だから改変ジョークにおいて差別問題が捨象されていることを指摘することも何ら奇妙ではないし、ある意味では改変ジョークの補足ともいえる。そして、そうした捨象を軸としてDr-Seton氏の意図や問題を読み解いていくことで一つの批評ともなるだろう。
だが、原発事故を発端とする出来事へ言及する時に、必ず差別問題に言及しなければならないということはない。様々な問題が存在する時に、公人ならばともかく、個人が一つの問題を選んで取り上げること自体は批判されるべきではない。差別問題をとりあげるよう求めるならば、はてなブックマークでいくつか行われているように、欠落している問題として指摘するなり、個々人で組み込んだ比喩を作るなりすればよいだけだ。
はてなブックマーク - 「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな - Dr-Seton’s diary
他人が一つの問題にとりかかっている時、関連しつつも異なる問題にとりかかるよう要求することは、「醜悪」とまではいわないが、誤った態度であると私も考える。希望や要望くらいでとどめるならば、まだしも。
醜悪 - ならなしとり

ぶっちゃけ、何の利益も得ていない一個人がなにを批判しようがその人の勝手でしょう。読者はあくまで読者であって顧客やスポンサーとは違います。
熊森を批判するのであれば原発も批判しなくてはならない論理的な必然性があれば別ですが、獣害問題と原発問題は基本的に異なる領域の問題です。環境問題と言うかなり大きなくくりで見れば同じものとみなせないこともありませんが、その場合は逆に原発を批判しておきながら熊森を批判しないのはおかしいなんてことも言いだせてしまえます。

むろん、Dr-Seton氏の主張から差別の肯定そのものが読み取れたらなら話は別だ。しかし、私が読んだ限りでは、誤読を誘う問題はあるにせよ、そのまま差別を肯定していると読解できる部分はなかった。
Dr-Seton氏は前段の比喩と後段の皮肉で異なるレトリックを披露しているわけだが、そこで共通しているのは、科学的に見た健康被害の少なさだけで店員を擁護することはできないという主張だ。改変ジョークが差別の肯定に直結しているという考えは、差別を否定する理由と合理性を同一視する誤謬がなければ出てこないだろう。
実際、先に紹介したエントリでhietaro氏自身は下記のように主張している。少なくとも「非合理的」という表現をここで持ち出すべきではないのだが。

結局、科学的に影響がなくてもダメ、と言いたいわけで、しかしながら世の中というのは互いの助けがなくては生きていけず、己の欲望だけを通してはやっていけないわけで、本当にこういう非合理的な主張をそのまんまみんなが振りかざしていいのかという話。

国益に反していようとも、科学的に能力が劣っている人間を科学的に見つけ出しても、差別はされるべきではない。差別を否定するために科学や国益といったものを持ち出すことは、本来は説得のためのレトリックであって、せいぜい主張の補強にしかならない。
差別反対を理由として改変ジョークを批判するならば、非科学的な判断を理由とする差別につながり利用される懸念を表明するといった程度にとどめるべきだったろう。Dr-Seton氏に求められたと同様にレトリックは慎重に使用されるべきであるし、差別反対に合理性を必要とする論理を内面化してはならない。

*1:私が知らない間にDr-Seton氏が発言者を訂正したのかと思っていたが、こちらで改変ジョークの全文が転載されており、「正しく怖れよ。」という台詞が「別の客」によるものということが確認できる。また、引用されているchronekotei氏の主張で、「価値中立的な立場の科学者が客観的なリスク評価を訴えると謂う構図になる。そこを曖昧に胡麻化して科学者にも当事者性を負わせようとする詭弁」という「エア御用」の解釈は、言葉の選択そのものがまずい。国や東電と立場が異なる第三者として活動しても、当事者性は持たざるをえない。Dr-Seton氏のエントリを第三者として解釈し論じている私が、私の主張している範囲での当事者性を負うように。

*2:誕生した場面を充分に確認していないので、このあたりは推測をまじえている。そもそも「正しく怖がる」は、昔からありふれた言葉の組み合わせであり、先行例を探すことも難しくないだろう。少なくとも「正しく怖がる」には、寺田寅彦の言葉を引いたものでありつつ、意味あいを多少変えている。

*3:つまり、本来の御用学者。

*4:ただし、批判対象が具体的に示されなかったため誤解や誤読をまねくという理路の批判ならば、一定の妥当性があると思う。批判対象を直接的に指さないことが寓話の性質ではあるし、続くと予告されていることも考慮していいにしても。

*5:Dr-Seton氏を批判した理路によっては発言の整合性を問われる場合もあるだろうが、そこまで確認するつもりは今回ない。

*6:念のため、ここでは原因と表現していないことに注意してほしい。