法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

指をひたしたラーメンの問題

「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな - Dr-Seton’s diary

私が気に入っているジョーク

レストランにて。


ある客(客)「ちょっと。ウェイター。スープに何か浮いているのだが。」
ウェイター(ウェ)「クルトンではないですか?」
客「黒いのだけどね。」
ウェ「ゴマじゃないですか」
客「何か突き出しているけど」
ウェ「カラス麦かもしれませんね」
客「動いているように見えるんだがね」
ウェ「…ハエだったら何だって云うんです」
客「スープを波立たせないように云ってくれないか」

この元ジョークの後に「ラーメン屋にて。」という改変ジョークが書かれている。
素直な感想として、表現として上手いと思った。この種の改変ジョークで300を超えるはてなブックマークがつくことは珍しい。
はてなブックマーク - 「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな - Dr-Seton’s diary
もし自分が書くとしたら、冒頭に引かれているジョークよろしく、くだらないオチを意地でもつけただろう*1
また、こんな一節を挿入したりして、状況の混沌そのものを表現する方向に興味がいくと思う。

また別の客「なんと恐ろしい。私はあなたの気持ちがよくわかります」
客「いや、単に嫌という話をしているんだよ。話がややこしくなるから黙っててくれないか」
また別の客「皆さん聞きましたか? ここの店はラーメンに毒を入れているそうですよ!」
客「難聴を治せよ! そんなもん入れられたって話はしてねえよ!」
店員「そうです、私は指など入れておりません」
客「オレはアンタが指を入れたことを否定してねえよ! なに弁護された気になってんだよ!!」

何にしても、Dr-Seton氏の改変ジョークは、状況の一面を切り取っているからこそ、異なる側面を指摘しようとして多くのコメントがついているのだろうと思う。
念のため、一面しか切り取っていないこと自体は何も悪くない。もともと寓話とはそういうものだし、究極的には全ての表現がそういうものだ。


ただ、一部で改変ジョークの意味そのものが誤読されているような気がするので、補助線の存在も指摘しておく。
Dr-Seton氏が冒頭に元ジョークを置いたのは、おそらく単に改変元を示すという意味ではない。改変ジョークへ直接的には移されていないオチに意味がある。
野暮を承知で解説すると、ハエがいることに対する客の価値観が常識と異なっているから、クレーム内容が予想外で、その落差がオチとなっている。つまり、何を問題視してクレームをつけられたのか、店員や読者が理解できていないという構造の話だ。物事の価値判断には様々な基準があり、科学はその基準を見いだす手法の一つであって全てではない。
それと同様に、改変ジョークの「エア店員」も何が問題視されているのか理解していない。科学的な反論で客のクレームを抑えることはできない。ただし、改変ジョークの店員は何が問題視されているのか気づいている。たとえば客の前で指をひたすと、さほど物理的な変化はなくとも、ラーメンの味は変わってしまう。

客「丼の中にヒタヒタとつかった指……こういう汗のにおいのする、フケツきわまりない料理の運びかたは生理的に大嫌いだ」
包丁人「(ガタッ)」
客「おまえじゃない座ってろ」

マンガ『包丁人味平』の調理勝負で、うしお汁へ落ちた汗で塩加減がちょうどいい塩梅になったというエピソードがある。そのことをもって主人公に軍配をあげた審査員だが、やはりというべきか勝負の終了後に怒り出す。むろん本当は、汗が入ったくらいで味は変わらないだろう。あえて考証するならば、観察が心理的な影響を与えたのだと考えるべきだ。
マンガ『美味しんぼ』にも、改変ジョークと似たエピソードがある。床に食材を落とした料理人が、廃棄するそぶりで店の奥へ持っていきながら、こっそり客に出そうとしていると主人公たちが気づく。調理前の食材を床に落としても、たいていは加熱調理すれば健康に影響ないだろう。だからといって、あざむくように目の前に出されても困る。
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もうちょっと分かりやすく言うと、髪の毛1本浮かんでたってスープに影響与えるとは思えない、でも浮かんでるの見たら不味くなると言う事。器とかお店の清潔感とかでも味は変わる。ま、本題とは直接関係無いけども。 2012/03/01

同じように、上記のid:T-3don氏によるコメントは、改変ジョークに対する異論として示されたものだが、実際にはDr-Seton氏の本題と重なっている。物事の評価は、文化や心理といった価値観にも左右される。

科学的に見て健康に影響があるかどうか、を基準とするのは大元から間違っている。頼みもしないものをぶち播かれて、それを受け入れろ、と言い募る。そして、それを正当化する。
そうした事を批判し、拒否しているのだ。「放射能に対する怖れ」ではなく、「そのような事態を起こした者達やそのシステムに対する怒り」なのである。
その事を無視し続けているのは、判っていないからじゃないのでしょうね。

ここで「無視」している責を負うべきは、改変ジョークの配役でいうと、店員である。
元ジョークの客が「スープを波立たせない」ことだけを求めても他のスープにハエが浮かんでいていいことにはならないし、改変ジョークの別の客が正しくても店員が指を入れたことを追求するべきことに変わりはない。
それなのに論争の結果として、別の客にばかり注目が向かう。別の客がおそらくは善意と信念でもって論戦を続けるほど、店員の存在感が薄れていく。たとえ、別の客がそれを望んでいなくても。「エア店員」が批判しているような「恐怖」をいだく客が存在したとしても。それどころか、別の客が話題をきりかえて店員の問題点を批判し始めても。改変ジョークの構造は維持される。店員は指をつけたことをとぼけつづけられるのだ。
なお、同様の論理を持って、逆にDr-Seton氏の「その事を無視し続けているのは、判っていないからじゃない」という観測にも留保しておきたい。被害を受けたと思う側の価値観が重要であるならば、行為者の内面を問うことに意味は薄い。


最後に、店員すら責任が持てない域にまでクレームをつける客も、それはそれで問題になるだろう。私が勝手に挿入を考えた一節のように、やはり店員の存在感が薄れていく。
改変ジョークに出てくる客は、怒りに科学的な根拠が必須という思い違いをしていないからこそ、別の客の主張を的外れなものとして退けることができる。「正しく怖れる」ならぬ「正しく怒れる」客といったところか。では、どうすればそのような「正しい」客になることができるか。
ここで椎名高志『(有) 椎名百貨店』*2という不条理4コママンガを紹介しておきたい。『(有) 椎名百貨店』には、同じ小学館から出版されているおかげか、マンガ『美味しんぼ』をパロディした作品も収録されている。
そのパロディでは、雪山で遭難した山岡士郎っぽいキャラクターが救助用ワインの味を批判して凍死する一方、同じように遭難した海原雄山っぽいキャラクターは散々に罵倒しながら寛容と自称して救助用ワインをしっかり確保する。それぞれの人間性を誇張して笑う作品ではあるのだが、それぞれのふるまいは必ずしも間違っていない。

またまた別の客「見ろ!!スープが汚れてしまった!!」
またまたまた別の客「指を入れたラーメンはできそこないだ、食べられないよ」
またまた別の客「むう……しこしこした歯ごたえ……濃密な魚介ダシの香り……全く……あさましい食い物だ。店員!!二度とそんな指を私のラーメンに入れるなっ!!」

信念に殉じることも個人の自由ではあろうし、逆に批判したからといって全て拒絶しなければ一貫性を欠くというわけでもない。
そして、何かを批判する時に、問題点を全てさらいだして全否定する努力をする必要は本来ない。相手に大きな責任がなければ問題視できないという観念は、自己責任論の内面化というものだ。全否定しようとする強迫観念と、重い責任がなければ批判を回避できると考える権力者のふるまいは、相補的に無意味な陰謀論へ結びつく。
それらを常に念頭に置いておくことが、間違いだらけの社会で間違うことだらけの人間が生きていくための、たいせつな考え方だと思っている。

*1:一例。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20110322/1300811037

*2:相原コージ『コージ苑』にも『美味しんぼ』のパロディがあり、混同していた。コメント欄参照のこと。