法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

靖国神社は遺族より偉い

かねてから靖国神社に台湾人が合祀されていることへ反対運動を展開してきた高金素梅議員が、その運動に際した威力業務妨害等の容疑で書類送検されたという。
http://mainichi.jp/select/today/news/20110811k0000e040048000c.html

 靖国神社への抗議行動で祭祀(さいし)業務を妨害したとして、警視庁公安部は11日、台湾の高金素梅・立法委員(45)=国会議員=を威力業務妨害礼拝所不敬、傷害などの容疑で東京地検書類送検した。海外の国会議員の立件は極めて異例だが、高金立法委員を巡っては05、06年にも同様の行動で強制排除に発展した経緯があり、警視庁は「再犯の可能性が高い」と判断した。海外在住のため、現実的には刑事責任を問うのは困難とみられる。

 送検容疑は、09年8月11日午前9時半ごろ、東京都千代田区靖国神社で、男女数十人とともに、「(台湾先住民族戦没者の)合祀をやめろ」と書いた横断幕を掲げ、「英霊を返せ」と叫んで行進。正当な理由なく礼拝所に押し入ろうとするなどして神社の祭祀業務や一般客の参拝を妨害したとしている。制止した職員1人が軽傷を負った。

 公安部などによると、高金立法委員は台湾先住民族出身の女性で、02年以降、たびたび来日して靖国神社で抗議活動をしていたという。小泉純一郎元首相の靖国参拝を巡る損害賠償訴訟の原告団長も務めた。事件直前にも、都内で同様の抗議を目的としたシンポジウムなどに参加していたという。

 前衆院議員の西村真悟氏らが昨年5月、「日本人に対する侮辱」として刑事告発。公安部は今年2月、観光旅行で来日した高金立法委員に任意の事情聴取を求めたが、「終わったことなので関係ない」として拒否されたという。

この記事から、靖国神社は合祀された遺族らの気持ちも踏みにじっていることが明らかになる。靖国を批判する遺族の代表として激しい主張を展開している高金素梅議員は、映画『靖国 YASUKUNI』でも見ることができた。
ちなみに記事中の西村元議員だが、戸塚ヨットスクールを支援したりと、本人こそ「日本人に対する侮辱」を行っている印象が強い。そもそも靖国神社を批判することがどうして「日本人に対する侮辱」と繋がるのか、弁護士法違反を犯した弁護士の論理は私には理解できない。
しかし、単に靖国神社に反対運動を展開する者が傷害事件を起こしたとだけ読み取る人も少なからずいるようだ。


せめて、靖国神社は遺族のためなどという嘘をつかないでほしい。身勝手な自己を嘘で糊塗しても、さらなる恥辱の上塗りでしかない。
下記の産経新聞記事のように、虚偽に満ちた説明が公に流され続けることこと、日本への侮辱というものだろう。段落ごとに細かく批判していこう。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110805/trd11080507410002-n1.htm

 8月15日の終戦の日が近づいてきた。ことしも閣僚の靖国神社参拝は期待できそうもない。だが、中国や韓国が何と言おうと、首相をはじめ、閣僚や国会議員は靖国神社に参拝する義務がある。

高金素梅議員が反対運動を展開しているように、批判しているのは中国や韓国だけではない。

 なぜか。戦死をしたら靖国神社に祀(まつ)るというのは、法律などに規定があるわけではない。だが、それは戦死するかもしれない人々と、残された人々との黙契(もっけい)であるからだ。黙契であるからこそ、万が一にも戦死をしたら生き残った人々、すなわち大臣から一般庶民に至るまで、自分に感謝と慰霊の参拝をしてくれると信じて、命を的(まと)に戦うことができたのである。

実は戦死していなかったと後で判明した本人から合祀をやめるよう求められても、靖国神社は拒否している。実際には拒否したい契約であっても、口を閉ざせば「黙契」したことにされてしまう。
太平洋戦争で自軍兵士の命も無駄にすり減らされたことが、ここに来てこのような醜悪な形で靖国神社を擁護する理屈に使われているわけだ。

 また、自分の家族が戦死しても、大臣から一般の人々までが、参拝をしてくれることで、遺族も心を癒やされるという一面があった。

それでいて合祀されているために癒されない遺族の気持ちは踏みにじる。つまりは靖国にとって都合のいい存在しか遺族として認めていないということ。

そして何よりも大事なのは、国家が祭祀(さいし)を行うということなのだ。靖国神社に祀られている英霊は約250万柱。そのほとんどは男性である。統計があるわけではないが、そのまた多くが若者であり、独身者であった。彼らは結婚もしたかったであろうし、子孫も残したかったに違いない。しかし、国家のため、郷土のため、家族のため、それらの希望を断ち切って戦死せざるを得なかったのである。

「そのほとんどが男性である」という表現は、男性しか主体性を認められなかった時代をそのまま受けついで書いているかのようだ。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110805/trd11080507410002-n2.htm

 子孫のいない英霊は、家庭において、親や兄弟が祭祀をする。しかし、親は亡くなり、兄弟もやがて亡くなっていく。その後は、甥(おい)や姪(めい)が祭祀を継続することになるのだろう。だが、その甥や姪もいずれは亡くなる。100年たったら、誰が祭祀をするのだろうか。子孫はいないのだ。国家しかない。だからこそ、子孫を残せなかった戦死者は、国家が半永久的に祭祀をしなければならないのだ。

その論理が正しいならば、靖国神社は建前としても国家ではないので、存続させる意味はなくなる。

 国家、国民のために、自己のあらゆる可能性を放棄せざるを得なかった戦死者に対して、国家が何もしないのならば、今後、国家、国民のために命を捧(ささ)げようという人は出てこないであろう。

台湾人兵士が戦後に日本人でないとされて、補償の対象から外された歴史を、この記者は知らないのだろうか。

戦犯とされた人が合祀(ごうし)されているとか、神道形式だとかというのは、些末(さまつ)な問題にすぎない。これからの日本の平和を守るためにも、閣僚、国民みながこぞって公式に感謝し慰霊する義務があるのである。

昭和天皇とかにも「些末」という言葉を投げかけられるなら一貫性はあるかもね。
それでも、宗教観が個々人で異なるということを「些末」と片づけようとするのは、民主主義国家の日本では受け入れがたい反応であることも確か。たとえば米軍では、無宗教をふくめて多種多様な兵士の宗教観にあわせた追悼施設を作っているという。

 8月は全国各地で戦死者への慰霊祭が行われるが、戦死者は交通事故や災害の死者とは異なる。単なる慰霊だけではない。感謝の気持ちを併せ持たなければ、本当の慰霊にはならない。ことしこそ、国家は戦死者に対する黙契を果たそうではないか。(編集委員 大野敏明)

ああ、全国各地での戦死者に対する慰霊祭を「感謝の気持ち」をあわせもってないと思って、「本当の慰霊にはならない」と評価するのか。とても私には真似できない。