法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

原発が宗教である意味

自覚的な反原発教と、無自覚な原発狂信と - 法華狼の日記に対して、[twitter:@NaokiTakahashi]氏が批判していたようなので、いくつか補足説明。

実際に切り捨てられてきた人がいるという話は、まさに私がエントリ末尾で書いたことなのだが。

もっと醜悪なものがあるといわれても、私個人の主張が妥当かどうかと直接的な関係はないと思うが。

先のエントリでは煩雑になるので省略したが、下記Togetterを見ればわかるように、「宗教」という言葉を直接的に相手へ投げかけたのは、[twitter:@noiehoie]氏ではなく[twitter:@teppooo]氏だ。
反原発という宗教 - Togetter

noiehoie氏が原発維持の理路を「霊感商法」と呼んだことが発端だが、この時は「東電」を対象にしている。しかしteppooo氏が「逆も真なりではないですか?」「即原発停止ってのが正にその宗教になってませんか?」と問いかけたことを契機に、宗教と呼ばれることをnoiehoie氏は引き受けた。
別に狂信という虚像を装っているわけではなく、原発維持という選択と同様に反原発という選択も「思想信条」でしかないと認めたふるまいだ、と私はとらえた。実際そのようなツイートもある。

先日に「最終的に政治的で価値観にしたがって立場を選ぶ態度」がこのTogetterでいう「宗教」の意味だと書いたのは、この流れを見ていたから。
くり返すが、ここでいう「宗教」で立場を選ぶこと自体は何ら悪ではない。noiehoie氏は比較的に正しいと思うが、それは自説の根底が「思想信条」と自覚し認め、その態度に欺瞞がないと判断したからだ。左翼や右翼が、あえて自らの政治的立ち位置を表明するようなものであって、そこに韜晦はあったとしても嘘はないと見なせる。

できれば私のエントリを読み返してほしい。対応する側のふるまいについては、同じことを書いている。

これはディベートに似ているが、相対する側は本意を問う必要はない。本意であれ演技であれ真摯に立場を引き受けているかのようにふるまっていることは同じなのだから、相対する側も自らが立場を選んでいることに自覚的であれば良い。もちろん相手にしないことも自由だ。


もう一つ、直接的には私への指摘ではないが、どうしても気にかかったので。

相手の主張を仮定として採用し、その仮定を延長すれば不具合が出ることを示すという批判方法は、一般的なものだと思う。偽科学や歴史修正主義の詭弁を批判する手法としても珍しくない。批判のために採用した仮定であれば、その否定を文章に含意しているわけだから、単純に責任を負う必要はない。嘘という意味での「装う」とは、この場合にこそ当てはまる。
ちなみに批判のためでなくても、議論最中に相手の主張を仮定として採用することは、何ら悪いことではない。ただし、この場合は責任をいくらか負うだろう。
ただ、おそらく私が同じ立場なら、仮定であることを明示しながら文章を書き進めるだろうと思う。「もし」や「仮に」と文法で仮定法と示しても、相手に理解されないことは過去に何度もあったが、だからこそ誤解は招きたくない。このことでは、noiehoie氏は真摯であっても紳士ではないと思う*1

*1:もっとも、noiehoie氏が仮定で論を進めているか自体も、微妙なものがあるが。