法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

過ちを批判する努力と義務の違い

以前に私が書いたエントリから起きた出来事を対象に、toroop氏がカジュアルな差別性の問題についてのエントリを上げていた。
「この差別主義者めー」 - 徒労の雑記

 私が驚いたのは、sionsuzukazeさんの発言程度では人格的評価に対する失点にならないらしい、という事実だ。在特会あたりのメンバーが言っていても違和感ゼロの差別発言なのに、「最悪だ」とか「失望した」とか、そういう声はまるで見かけられなかった。韓国人がパクリ大好きの低モラル民族*1というようなカジュアルな蔑視は、もう空気のようなレベルで日本社会(あるいは日本のネット社会)に根付いているらしい。

*1:sionsuzukazeさんのコメントはそういった意味だろう。

 たとえば在特会や排害社などに対しては「黙れ」「死ね」などと威勢よく批判の声を発してくれるMukkeさんでさえ、sionsuzukazeさんのカジュアルな差別発言は完全にスルーしていた。問題のエントリのブックマークページでsionsuzukazeさんのコメントにスターをつけていたので、あの差別発言を読んでいなかったはずがないのに。

私が言いたいことは以下の三点だ。

  1. 在特会レベルの突き抜けた連中さえ批判していればOKとは考えないでほしい。
  2. カジュアルに差別発言をしないでほしい。
  3. カジュアルな差別発言を見かけたときも「はいダメー」と言ってほしい。

 戦略が悪いと言われないように、あくまで下手に出て要望する。

     ____  
   /      \
  /  ─    ─\ 
/ U  (●)  (●) \  < うーん・・・
|       (__人__)    |
/     ∩ノ ⊃  /
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /

おおむねtoroop氏が主張したいことはわかるつもり。しかし疑問もある。
自分自身の過ちならばともかく、仲が良いとしても特に責任を負っているわけでもない他者の問題を、批判する義務はないはず。最終的にtoroop氏自身も「要望する」と明言しているように、あくまで可能であれば実行することが好ましいという程度の、努力義務にすぎない。
そしてそれは「戦略」の問題ではなくて、無限の力を持たない個人である以上は逃れられない原罪のようなものだろう。このことがカジュアルな差別を存続させていく一因であることは承知しつつ、個人に無限の責任を負わせないことを私は優先したい。
そもそも、批判がとどいているならば、横から批判せずに当人が改めることを待つという態度も間違ってはいないと思う。いわゆる「炎上」のように、個々の批判で妥当性があっても批判対象の対応能力を超えてしまっては「戦略が悪い」と判断することも、私は悪いとはいえない。
私自身も様々な過ちは行ってきて、以前に好意的な評価を行ってくれた人が私の過ちを批判しない場合も少なからずあった*1。その場合の過ちは私の問題であり、批判されるべきは私である。私を批判しない人に外部からうかがえない問題があったとしても、それが表に出ない限り批判してはならない。
他からも同様の指摘がされているが、sionsuzukaze氏らの返答で満足したことをtoroop氏は下記エントリで表明したからこそ今、私からも注意しておきたい。
「この差別主義者めー」完結編 - 徒労の雑記


一方で、努力義務だからこそtoroop氏の要望自体は全く同意する。id:hokusyu氏も指摘しているように*2、私はもちろん誰もがカジュアルな差別を行いかねないからこそ重要だ。以前に差別をとりあげたエントリで私も似たような主張をふみこんで書いたことがある。
息を吐くような差別を見た - 法華狼の日記

ただし、属性を使って集団や個人に評価を下すこと自体は、人間として当然だと思わないでもない。属性で他人を理解しようとする方法論は、誰もが使っている。だから、zamudo氏と同じような差別を行う危険性は誰にでもある。
ゆえに、差別主義者でない者は、他人を属性だけで理解することの限界もまた知らなければならない。たとえ属性と事件に確実な因果があっても、そのまま属性をもって批判することは躊躇するべきなのだ。
物事を理解するには、単純に整理する作業と複雑に把握する作業という、少なくとも両面が必要ではないだろうか。

正直な話をすると、創作においては類型化された属性が受け手の理解を助けることとなり、利用しやすいと考えている。実際に自分自身の創作でも利用している*3
ただ、そうして属性そのままに描くだけでは刺激も起伏もない創作性の不足した作品になると思う。理解しやすい導入部からの展開を通して、固定観念を超えた世界観をかいま見ることこそ、物語の醍醐味だと私は考えている。


さて、対するsionsuzukaze氏の応答エントリにも、2つほど疑問があった*4
http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20110115/1295101835

まずここ1年で大きく物事に対する意識(視点)のすえ方が変わっているので、過去の問題がある発言についてはその発言が問題であろう、ということは理解している上で、かと言って隠蔽する気も無いので消しません、というスタンスであります。

注意しておくと、1年以上前にbogus-simotukare氏が発言したことに対してsionsuzukaze氏が「覚えているのだろうか?」とつぶやいたため、数日後に私がエントリを書いた。はてなブックマークのコメントは補足として指摘しただけで、「誠実さを示すため撤回なり補足なりするだろうと期待しておく」と距離をとった。
そもそも人間は自分が被害者であるかのように記憶を変容させてしまう生物なのかもしれない - 法華狼の日記
sionsuzukaze氏の記憶こそが誤っていたという問題もあるが*5、そもそもbogus-simotukare氏に対しても自身と同様の視点で過去の発言と見るべきだったのではないかと思う。
また、下記のような文章を今回に書く必要はあったのか。

ただし、韓国ないしは中国のパクリ文化云々については、少なくとも日本も一部そうして発展した過去もあり、過剰にどうこう言うことは問題もあるとは思いますが、そういった文化が無い、とすることもまた現時点ではしません(見れば分かる問題ですし、日本も過去にそうしてきた文化もまたあったわけです)。

その上で、韓国も中国もパクリないしはブランド模倣を一通りはやってみるような段階ではあるのだろうし、それを購買するのが「日本人」であろう、というのも否定はしないし、だからといって否定もしないし、事実そういう購買文化があることもまた否定し得ないだろうとも思う。

     ____
   /      \
  /         \
/           \
|     \   ,_   |  < ・・・これは「はいダメー」というしか
/  u  ∩ノ ⊃―)/
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /

「日本も一部そうして発展した過去もあり」というなら、「文化」のように国ごとの固有性を想定することは躊躇するべきなのではないか。違法コピーに対する取締りの甘さを指摘するならばともかく、韓国という国家が主体的にパクリをしているような表現自体もさけるべきだろう。
かつて私自身も、同様の問題をとりあげたエントリを書いたことはある。しかし末尾で「技術コピーを民族的特質と安易に結びつける考えには、正直いって辟易している」と明言しているように、「パクリ文化」という観念そのものを否定したつもりだ。
模倣に始まる技術もある - 法華狼の日記
あと、sionsuzukaze氏のコメントでも、批判しているtoroop氏のエントリでも、「韓国」にしか言及されていないのに、なぜ「中国」が出てくるのだろう。「パクリ文化」が必ずしも悪ではないという釈明ならば、日本が他国を模倣している具体例でも引けばいいだろうにと思うのだが。

*1:最近では、熊森協会問題に関連して、批判すべきことと問題があることの違いを明示せず、誤解をまねいたことがあった。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20110103/1294073375とりいそぎ釈明したので、後から別の思い当たる節について補足したいことも残っているが……

*2:「カジュアルな差別ってたぶん誰にでもありうるものだと思うので、気づいたらふつうに「はいダメー」って言って、言われたほうもそれに納得したら「ごめんね」って言って以後改めればいいんじゃないかなあ。 2011/01/16」http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toroop/20110115/p1

*3:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070522/1179849138固定観念を否定する寓話のようでいて、「名探偵」の推理もまた固定観念を基礎としている。今の日本でも好きな若者はいるし、「周期」の話も都市伝説にすぎない。もちろんフィクションであり、超短編ミステリを成立させるため無理やりな論理で押し切るシリーズという私なりの趣向もあったのだが、2ちゃんねるの「俗情との結託」を選択したがゆえの突っ込まれどころという自覚はある。

*4:ちなみに、下手な謝罪の言葉を並べるだけでは慇懃無礼ととられかねない難しさもあるので、直接的な訂正や謝罪を明言せずに批判の受け入れは表明する態度は、一つの方法論ではあると思う。

*5:意識のすえ方が変わっているなら、それこそ記憶は変容しやすいだろう。