法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』の第9章だけ斜め読みした

従軍慰安婦問題への言及があるという話題にからんで2回ほどエントリを上げたこともあり*1、遅まきながら確認してみた。
すでに幾人かから教えてもらった通り、記述は簡便なものにとどまっている。慰安婦制度自体の端的な説明から、戦後に日本政府が謝罪や補償から距離をとりつつも村山談話等以降は公式謝罪が継承され続けているという経過にいたるまで、良くも悪くも辞書的な解説だ。慰安婦が日本軍兵士によって運ばれたという説明はあったが、もちろん必要だったとは書いていない*2と同時に、徴募段階で日本軍兵士が暴力的に連行したという記述がされていたわけでもない。
著者の評価が感じられるのは、慰安婦制度の強制性を否定した安倍普三元首相の合法論を「強弁」と表現しているところくらいか。翻訳によるニュアンスの変化も考えられる、ささいな批判にすぎない。しかも主張内容への妥当性とはまた別の、態度に対する評価と考えることもできる。


そもそも、従軍慰安婦問題は個別の事例として問題視されているのではなく、ホロコースト奴隷制度と併記され、生まれてもいないころに国家が犯した過去の罪に、現在の国民個人が責任を負うべきかという大きな問いかけへの入り口にすぎない。
つまり、サンデル教授が語ってきた「正義」の延長でナショナリズムが消滅するなら、同時に国民というくくりでの責任も消滅するのではないか、という問題提起だ。これは従軍慰安婦記述とは別個に興味深かった。もちろん歴史認識に興味を持つ人の多くは暫定的な回答を持っているだろうが*3、再考する価値のある論点だと思えた。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100901/1283292529http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20101013/1286985850

*2:10月13日エントリでid:toraba氏とコメント欄でやりとりしている内容を参照のこと。

*3:ちなみに私個人の考えをいうと、国家が連続している限りは、個人がとりえない責任をも引き受け続ける義務がある、といったところ。ここでいう「個人がとりえない責任」とは、国外に対する戦争犯罪だけでなく、国内での人権問題などもふくむ。そして民主主義国家である場合は国家の意思決定に国民が一定の責任を持つから、従軍慰安婦問題へ戦後生まれの日本人も間接的な責任を持つ、といった結論になる。しかし私の考えを延長すると、日本国民であれば責任を持つという考えから、たとえば親が日本人でも国籍を移せば責任が弱まるし、日本出身でなくても日本国籍を取得すれば一定の責任は生まれることになる。もっとも、移民を受け入れる経緯によっては、日本国籍を取得し取得させられること自体が、歴史問題の責任をとるというメッセージとして機能する場合もありうる。……といったあたりで、考えが止まってしまっている。今後は歴史問題における責任の所在という論点についても学び考えるべきだろうと思う。