法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

とりあえず長谷川三千子教授は『レインボーマン』も見るといいと思うよ

最近の産経新聞児童虐待問題に取り組んでいて、内容も素晴らしいと思う。しかし、それとは関係なくサンデル先生の『これからの「正義」の話をしよう』について評した「正論」について少し。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101008/acd1010080342003-n1.htm

 「正義」といふ言葉が死語になつて久しい。戦後の日本で、「正義」といふ言葉は、「月光仮面のおじさんは、正義の味方よ、よい人よ」などと子供の歌の中に登場することはあつても、大人が大真面目(まじめ)に口にする言葉ではなくなつてゐる。

月光仮面』とは古いな*1。1958年当時の視聴者は還暦にさしかかっていてもおかしくない。
ウルトラセブン』がノンマルトやギエロンを描き、『海のトリトン』が最終回で主人公の正当性を裏返し、『宇宙戦艦ヤマト』が終盤において主人公のたどってきた戦いを懐疑したのが1960年代から1970年代にかけて。それらの作品を思い返すと、味わい深い導入の「正論」だ。

 もちろん、この背後に、戦後のわれわれが価値にかかはる事柄について何事かを断言するのにとても臆病(おくびょう)になつてをり、権利を叫ぶ方が美徳を語るよりはるかに受け入れられ易(やす)い、といふ風潮のあることは間違ひない。

前半には感覚として同意できる面もあるのだが、権利を叫ぶことと美徳を語ることが対立概念であるかのような後半には首をかしげる
必要な局面で権利を叫ぶことは、民主主義をになう一人として一種の義務であり、美徳ではないだろうか。

 ≪本来は苛酷で峻厳なもの≫

 しかし、そればかりではない。「正義」といふ言葉には、本来、きはめて冷厳な、苛酷(かこく)なと言つてもよい側面があつて、それがわれわれを尻込みさせてもゐるのである。たとへば、死刑制度についてはこれまでもさまざまな論議がなされてきた。死刑は残酷だから廃止すべきだといふ人もゐれば、凶悪犯罪防止のために死刑を存続すべきだといふ人もゐる。しかし、この世には、それを犯した当人が自らの命をもつてあがなふ他はない罪といふものが存在する。だから法は極刑の概念を捨てることはできない−さういふ議論をする人は稀である。そして、これこそが本来の「正義」の観点からの論なのである。

いや、ありふれた「議論」だと思うよ。それが本来の正義の観点という主張は珍しいが*2
しかし、ここで「正義」が「本来は過酷で峻厳なもの」と評されているところは注目したい。後述する主張とかかわってくる。

 かうした発想が現代の日本において多くの人々の共感を呼ぶといふことは、まづないであらう。けれども、現在の西洋文明の源流をなすヘブライギリシャの文明において「正義」とはまさに、かういふ発想だつたのである。

 それは単なる「よいことをしませう」といふ話ではない。不正は処罰しなければならぬといふ峻厳(しゅんげん)な思想である。そして、その発想を理解しておくのは、わが国が世界の国々とつき合つてゆくときに必要不可欠なことの一つなのである。

 『これからの「正義」の話をしよう』といふ本が日本でベストセラーになつたと聞いて、まづ第一に思つたのが、これで日本人たちの間でも、西洋文明における「正義」といふ考え方の苛酷さについての認識が広まるに相違ない、といふことであつた。と同時に、こんな異質で違和感のあるはずの「正義」の話を、何十万人もの日本人が喜んで読むといふのは不思議なことだ、とも感じたのであつた。

よく読むと、長谷川教授って全体的に日本人を劣っているかのように見ている気がする。「われわれ」とくくった上で「臆病」「尻込み」と呼び、「本来」の論が稀であると主張しているのだから。
そしてサンデル氏の正義に厳しさがないとしつつも高評価した後、長谷川教授は下記のような論を展開する。

 ただ、このやうにして「正義」をもつぱら「よいこと」としてのみ論じるサンデル氏の限界が見えてしまふのが第9章である。

 ≪謝罪の前に歴史の冤罪はらせ≫

 氏はここではじめて、「これからの正義」の話ではなく、過去の話をする。もしもわれわれが共同体の一員であることを否定するのではなく、その歴史と伝統に多くを負つた者だと考へるのならば、自国が過去になした罪を謝罪する必要がある、と氏は語る。そして、ドイツのホロコースト(編注 ユダヤ人大虐殺)や日本の「慰安婦」の問題をとり上げて、愛国者なら謝罪すべきだ、と示唆するのである。

 しかし、ここにサンデル氏のあげてゐる「慰安婦」問題は、実際には、全くの事実誤認にもとづく不当な言ひがかりである。そして、そのやうな不当な言ひがかりに謝罪してしまふのは、愛国者としての責任ある行為であるどころか、実は端的な「正義」の破壊である。といふのも、不正ではない者を不正だと言ひたてるのは、それ自体が不正だからである。個人に対するのと同様、国家に対しても冤罪(えんざい)といふことがありうる。そして、冤罪をはらすことなく放置するのは、それ自体、不正に加担することなのである。

 かうした観点はサンデル氏の「共通善」の考へからは出てきにくい。しかし氏の本の真骨頂は、よい議論を引き出すことにある。われわれ自身で、ここから大いに本当の「正義」の話をしてゆかうではないか。(はせがわ みちこ)

サンデル氏のいう慰安婦問題が事実誤認に満ちているかどうかは、私が著作を未読なこともあり*3、とりあえず脇に置こう。しかし自国の戦争犯罪に言及された途端に「不当な言ひがかり」などと反発するとは、「過酷」や「峻厳」から最も遠い態度ではないか。しかも冤罪をはらさないことを不正に加担すると位置づけるなら、権利を叫ぶことの大切さもわかるはずではないか。
論の立て方を見た限り、長谷川教授は、単に他人へ過酷さや峻厳さを美徳や正義として押しつけ、自分の欲する時だけ権利を叫びたいだけとしか思えない。それはそれで自由かもしれないが、どうも自己像とあまりに乖離してやいないだろうか。

*1:一応、アニメ作品が1970年代と1990年代にあったが。

*2:英語の「justice」ならば、処罰がふくまれるような強い意味もあるが。

*3:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100901/1283292529で書いたように、トゥギャッターを見て回った時、著作で言及されていることは知ったが、まだ目を通していない。先日にNHK教育で放映された東大特別授業は見たが、サンデル教授自身は示唆し、議論を導くだけで、具体的な事実認識には踏み込まなかった。