法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

無意識作画をめぐる、とりあえずの返信

すでにコメント欄*1でも簡単に返答したが、エントリでもいくつか。
外丸達也さんとけいおん - まっつねのアニメとか作画とか
「どうして」という問いの多くに対しては、基本的に「そのようなことは主張していない」と答えるしかない。「意識⇒無意識」という芝居の流れで作画されている場面が多い具体例として『けいおん』が出されたことに対し*2うつのみや理インタビューで語られた「無意識の演技」は論点が違うのではないかと私は主張した*3
私の把握としては、うつのみや理が目指した作画はアニメーターが能動的に様式から排除された動作を拾うことで獲得できる芝居であって、演出家がコンテ段階で指示したり編集段階で残す判断をすることで制御できるような領域を超えているはずだ。


以下、いそがしい人は読まない。
けいおん』の当該カットは何度も見たわけだが、作画的な価値が、うつのみや理インタビューの論点にしたがって存在するかは、やはり懐疑せざるをえなかった。
mattune氏はうつのみや理が無意識を描いた作画を「剣で戦っているので意識は剣を持っている手に集中しているので、剣を持ってない方の手というのは、無意識の動きをしているわけです」と評している。いわば一つの人体に緊張した部位と弛緩した部位が同居しているということ。人体から厳密には離れていうと、映画『イノセンス』でバトーが脇に下げたホルスターが体の動きに振り回されて一々動くカットを思い出す*4
一つのキャラクターであっても、均一の存在として動かすのではなく、その部位ごとによって異なる動きを同時に作画していく。巨大ロボットをアニメキャラクターとしてとらえれば、OVA機動戦士ガンダム0080ポケットの中の戦争』で磯光雄が作画したモビルスーツが、全体としての巨人的な動きとは別に、各所に配置された排気フィンやパネルが各個に動くカットなどが、より作画意図としてわかりやすい。
ひるがえって『けいおん』の動きは、時間経過に合わせてキャラクターが緊張から弛緩へと移行していく姿を描いている、としか私には見えない。実際にmattune氏もそう評価していると「意識⇒無意識」という表現から感じた。手をふる時は全身が相手を意識して緊張しているし、手をふることをやめて気を抜く姿から緊張した部位を見いだすことは難しい。念のため、下手な作画と思うわけではない。だが、うつのみや理が目指し評価されたような作画が『けいおん』にあるとしても、たぶんここではない。
同時に異質な動作を同居させて作画することと、様式ごとの動作を同一カットで繋げることの違い。もしカット単位で見て情報量が同じでも、芝居として時間単位で切り分けていった際の意味は異なる。たとえるなら、立体としての精密さと情報量の高い動きが同居しているメカ作画と、立体として精密に描かれたメカが同一カットのまま立体性を放棄して情報量の高い動きを始めた作画の違い、といったところか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20101004/1286144543

*2:http://d.hatena.ne.jp/mattune/20100929/1285770083

*3:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100930/1285863273

*4:毛髪や乳揺れといった、元から意識的な動きができない部位においては、すでに様式化されているといえる。しかしホルスターのような装備を追って作画するのは珍しいと感じた。