法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『世紀末オカルト学院』雑多な感想

テレビ東京のオリジナルアニメ枠「アニメノチカラ」第3弾。
細田守監督の薫陶を受けた演出家の初監督作品ということもあり、現在の細田作品が失った見所を期待するエントリを書いたことがある*1。OP作画で西田達三が参加していたり、本編にも梅津泰臣などのアニメーターがサプライズ参加していたりしていた。だが最終的には、エントリで注目したもう一人のスタッフ、水上清資シリーズ構成の色が強い、脚本アニメという印象が残った。
ここでいう脚本アニメとは、単に脚本が素晴らしいという意味ではない。そもそもアニメと実写では脚本家と演出家の注目度が変わるくらい、アニメ作品の画面に脚本家の意図が反映している程度は外部からわかりにくい。私が感じたのは、物語が構成されている時点で、アニメとしての見所が配置決定され、画面のテンションもリズムが作られているということ。女性キャラクターのサービスカットにいたるまで、伏線として物語の必然性へ組み込まれている。たぶん伊藤智彦監督は率直に物語を映像化していたんだろう、と思うくらいに。
物語上で起きていることがそのまま映像化され、描写に不明瞭さがないと同時に、演出によって物語の奥にある比喩や皮肉が浮かびあがることもほとんどなかった。これじゃ「アニメノチカラ」じゃなく「シナリオノチカラ」じゃないか、と思ったものである。
終盤の畳みかけてくるどんでん返しは素晴らしかったし、映像として伏線を配置していたところも映像作品として正しかったが、言語化できないような場面での見所も少しあれば良かったかな。


まあ冗談半分だが、原作なしのオリジナルアニメということもあってか、「アニメノチカラ」は第1弾も第2弾も物語が全面に出ていて、あまり演出の色がなかった。作画にそつがなく、演出も悪いとまではいかなかったが、記憶に残るのはシナリオ回しばかり。第1弾『ソラノヲト』は隠喩を多用していたものの、物語上で起きていることだけで話が展開し結末を迎えた。絵としての力があった第11話も、脚本時点で映像の見せ場が決定されているかのような物語だった。
映像をシナリオで完全に制御するということは、すなわちキャラクターを視聴者側が遊ぶ余裕が少ないということでもある。各作品の初期印象と比べてさえ人気が出ないことは自然だったのかもしれない。
結果として、長所と短所が極端で演出側が良さを引き出せる余裕を持つ吉野弘幸シリーズ構成より、『光と水のダフネ』のような低劣な作画でも良い作品を作った水上清資シリーズ構成に軍配があがったかな、という感想。