法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『殺人の追憶』

ずっと観なければならないと思っていたポン・ジュノ監督の韓国映画軍事独裁政権下に起きた現実の陰惨な連続殺人事件を題材とし*1、犯人を探し求めた刑事達の顛末を描く。
感想は途中からネタバレをふくむので、続きを読む方式で。


確かに構成は緻密で、映像にも隙はない。広がりある田園地帯、圧迫感のある警察署、鬱蒼とした森、陰鬱とした市街地、騒々しい鉄道、急転する天候、それぞれ自然に見えるよう映し出されながら、映画の中で明確な意味を持つ。当然のことだが主題が台詞で説明されることなく物語の流れで浮かび上がるようになっている。TVドラマの劇場版を思い出させるほど顔のクローズアップがくりかえされるが、それも映画の展開と結びついており、俳優もことごとく良い顔をしていて充分に絵が持つ。
しかし時代を代表する傑作と呼ぶには、よくできすぎていて逆にためらってしまう。もう少し映画として異形な、定石からは考えられない要素をふくむかと思っていたのだが、現実の事件と反して物語は美しく落ちる*2


映画全体は、いわゆるバディ物のサスペンス映画に近い。
韓国の田舎町。民主化運動の波は遠く、結果として警察力を公安に奪われている。広々とした畑の側溝に、隠された陰惨な死体。悪運の助けもあって巧みに逃げのびる犯人。容疑者を捕らえて信頼を回復しようとあせる警察。犯人と目された知的障碍者
現場で泥にまみれながら思い込みで捜査し証拠も捏造するトゥマン刑事と、都会から来て頭脳を働かせるテユン刑事。当初は反目しつつ、嫌々ながら捜査を進める内に互いを認め、協力してついに事件解決へたどりつく……かと見せかけて、冤罪被害者を解放したあたりから物語の構図が反転していく。


強要された自白と思われた知的障碍者の言葉こそ、実は真犯人へ繋がる自発的な証言だったという展開は衝撃的だ。ていねいに張られた伏線は真相開示時にすぐ思い出せるほど印象的、かつさりげなく提示されている。そして全てが明らかになった後は同じ情景が全く別の印象を持つようになる。視聴後すぐ、思わず証言の場面を見返してしまった。
この描写は、証拠を捏造してまで真犯人をあげようとしていたトゥマン刑事の行動にも根拠があることを示し、テユン刑事が認めるようになるきっかけになるよう当初は見える。実際そのように映画は進行する。証拠を捏造する正当な理由になるはずはないのに、話の流れで不問にふされる。
しかし知りうる全てを語る前に知的障碍者が映画から退場した時、物語はきしみはじめる。


ついに刑事達が真犯人と目される容疑者を捕らえる場面も鮮烈だ。雨と事件が関係しているという都市伝説そのままに、容疑者の顔が現れる。泥まみれの姿から、よく比較対象となる黒澤明監督の映画『野良犬』を思い出させる。
そのいかにも現代映画的な空虚で整った容貌の容疑者は、犯行を否認し続けて刑事達をいらだたせる。科学的な捜査の象徴としてDNA鑑定を行おうとしても、米国に検体を送って結果を待つ必要があった。
やがて犯人に対するテユン刑事の怒りが頂点に達し、序盤のトゥマン刑事を超えるほど強引な取調べを始めた時、物語の描いてきた構図は現実に敗北する。


思い返せば、トゥマン刑事達の知的障碍者に対する高圧的な尋問を、テユン刑事は横目で見つつも明確にとがめようとはしていなかった。
あからさまな冤罪被害者が救われ、いかにも絵になる描写で容疑者が捕まる。前者の冤罪にいきどおり、あるいは笑った者が、後者の冤罪には気づかない。この映画が描く多くのことの一つは、冤罪を作り出す者が持つ心の動きであり、それが普遍的な心理であるという問題ではないだろうか。
だから、結末においても姿を現さない真犯人の容貌が「どこにでもある顔」と示唆された意味は、どこにでも悪がひそんでいるというサスペンスの定石や、未解決事件を題材としたがゆえの制約だけにとどまらない。事件の犯人に「どこにでもあるわけではない顔」を求め、特異な犯人像を想像し、容疑者を悪魔化することをためらわず、冤罪を注意し続けることができない、そういう人間の安易な心理をえぐる力を持っている。

*1:厳密には、事件を題材とした戯曲の映画化らしい。

*2:あまり巧くないと思ったのは、監督の芸風であるドロップキックが、ちょっと無理やりだったくらいか。足元が悪くて自然な演技が難しかったのだろうが、この場面だけ微妙に俳優の演技がわざとらしく感じた。