法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

超越性をもたされた登場人物の扱いとか、肥大化した作品における冒頭の不都合さとか

「まおゆう」の啓蒙話法は、確かに問題をふくんでいるかもしれない - 法華狼の日記の続き。コメント欄で補足した観点もふくめつつ、雑多に書いていく。


前に見かけた時のtwitterはクローズドだったのだが、気づかない間に公開されていた*1。言及されているので、少し返答。
Naokitakahashi (@naokitakahashi) | Twitter

ミステリにおいては「コズミック」でとっくに終わっちゃってるよねw<探偵の超越性が云々の議論 やっぱ時代遅れだと思う。 http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100518/1274193406
9:49 PM May 18th

これはもう心底から反駁しておくが、流水大説でミステリが終わらされても困る。それも、たった一つの作品だけで結論づけられては、長いミステリの歴史で積み重ねられた模索は何だったのだ。
後期クイーン問題は逃れようがないことがほぼ確認された問題であり、その上で様々な調理方法*2が探られているのであって、『コズミック』で終了されてはミステリの発展が閉ざされてしまう。事実、法月綸太郎の問題提起を受けて後期クイーン問題を作中に取り入れた氷川透は、『コズミック』以降に同じメフィスト賞からデビューしている。
逆に先例を探すなら、『コズミック』は斎藤肇『思いがけないアンコール』*3作中で提示されたトリックの一つを、物理的に分厚い書籍という形式で提示したにすぎない。
ここから「まおゆう」へ話を戻す、魔王だけでなく個々の場面で知的優位に立つ登場人物の描写が、いわば名探偵の描写として巧みか、ということ。そしてはっきりいえば、あまり巧いとは感じられない。NaokiTakahashi氏の評価とは正反対で、説得するには粗すぎる論理を*4、萌えで誤魔化しているからこそ駄目*5。やたらサブタイトルが長い2時間ドラマの無茶推理を見ているような気分になる。一方が口ごもる描写ばかりで説得場面をすまさないことは当然として、もっと多様な逆説や詭弁を駆使してほしいとすら思った。
あと、ある作品の登場以降に積み重ねる先がないという論理を用いると、複数の「魔王勇者」が先行した末に出てきた「まおゆう」の存在意義を否定することにならないか。もし仮に「まおゆう」が『コズミック』であるという論理ならば、『コズミック』が駄目な私にとってはひどすぎる批判だとすら感じる。
Naokitakahashi (@naokitakahashi) | Twitter

西尾とかってその後から出てきてる世代だからねえ。その文脈が共有されてない感は覚えるけど、しかたないんだろうなあ。新本格ブームは遠くなりにけり……だから、同じくらい遠くなりにけった(←文法おかしい)Jファンタジーで議論のセンスが10年単位で食い違うのもやむなしか。
9:50 PM May 18th

西尾維新は、戯言シリーズの中盤ですでに本格ミステリが物語を進める要素の一部にしかなっていなかったから、今となっては参照されにくいのは自然ではないかと思う。
そもそも断絶を感じるからこそ、わざわざ私はミステリの文脈を参照したわけであって、逆ではない。『アンクルトムの小屋』が批判される文脈を引いてくることと、私の意識では重なっている。つまるところ文学全体で積み重ねがある論点なので*6、ミステリ文脈としてのみ引っぱることに誤解が生まれる危険もあるかもしれないが。


また、主に「まおゆう」の「間口」を問題ととらえているので、hokusyu氏に対しても私見を書いておく。
北守 on Twitter: "冒頭のあれが、単なる導入に過ぎないって言ってる人は一体何を読んでいるのか理解に苦しむ。"

冒頭のあれが、単なる導入に過ぎないって言ってる人は一体何を読んでいるのか理解に苦しむ。
1:24 AM May 19th

北守 on Twitter: "冒頭のあれこそが、もちろんあの作品の全体性を規定している。すなわち、あのようなかたちで事実を提示することによって、勇者(と読者)は、ある「謙虚さ」を身につける。その「謙虚さ」こそが、あらゆるネオリベ的価値判断が「自然に」受け入れられる下地をつくっているのだ。"

冒頭のあれこそが、もちろんあの作品の全体性を規定している。すなわち、あのようなかたちで事実を提示することによって、勇者(と読者)は、ある「謙虚さ」を身につける。その「謙虚さ」こそが、あらゆるネオリベ的価値判断が「自然に」受け入れられる下地をつくっているのだ。
1:28 AM May 19th

機動戦士ガンダム』シリーズが、どれだけミノフスキー物理学*7を緊密に構成しようが、ポケットの中の戦争*8を描こうが、超常能力で少年が活躍する巨大ロボットアニメとして物語が始まった事実は裏切れない、と読んだ。
私個人の趣味範囲でいうなら、『ドラえもん』のジャイ子という存在を、どのように物語上に位置づけるべきか。そして年月の流れによって大きく変化したジャイ子を、一つの話だけから評する意見があった場合、それを全否定できるか。
http://uuseizin.web.infoseek.co.jp/nobita/giant-ko.html
つまり、シリーズが進むにつれて多角的な目配りが入ってきた作品をどう評するべきか。ある種のファンにとって不都合な序盤をどうあつかうべきか。物語を生む側は、不都合な序盤を切り捨てるべきか、それとも枠がせばまることを覚悟して序盤に立脚するか、そのどちらが作品に対して誠実なのか……


西部劇において、最大の緊迫した危機に騎兵隊が登場する爽快感は、確かに現在でも娯楽として使えるだろう。しかしながら、その騎兵隊がけちらす「インディアン」の立場に思いはせられないような作品は、現代において批判せざるをえない。政治的な正しさへの目配りは、つまり現代にその物語を提示する意味や、政治的に正しくない立場へ置かれた読者へのコミットにも繋がるわけで、娯楽作品としての受容と全く無関係というわけでもないはずだ。
その意味でも、作品が提示された当時の受容と、現代における受容とで、区別する観点はあっていいと思う。「まおゆう」でいえば、2ちゃんねるで受容されていた段階と、完結後に作者の文章のみまとめられた段階とでは、やはり受容のありかたを問う文脈は変わりうる*9


「丘の向こう」に行かなければ夢をかなえるどころか生きながらえることもできない「甲斐のない人生」を選ばされた少年少女に対し、全く政治的に正しくない出来事で心を叩き折ってまで「あの丘の向こう」を全否定した下記映画を見返しながら、上記のようなことをつらつらと思った。
『交響詩篇エウレカセブン : ポケットが虹でいっぱい』 - 法華狼の日記
「丘の向こう」が近現代へ続く道ではなく、ここにはない「坂の上の雲」「ネバーランド」であるがゆえに、否定されなければならないという観点もあるわけ。
また、たいていの物語で描かれず省略される「丘の向こう」を克明に描くことで、より良い世界が作り出す地獄*10を描いた『キャシャーンSins』という作品がある。視聴した当時はどう感想をまとめようかと悩んだのだが、今回の延長で目算がたった。いずれ書く予定。描かれない後日談が幸福なものとは限らないと思いつつも作品を好意的に受容するような人こそ楽しめる作品ではないかと思う。
いずれにせよ、だから「まおゆう」が駄目とかいう話ではない、念のため。

*1:togetterはクローズドなアカウントの発言も拾えるのだと漠然と思っていた。

*2:基本的に娯楽なので、問題を問題として認識した上で物語にとりいれたりしている。きわめて古典的な例では、名探偵が真犯人というパターンもそうだろう。

*3:これをふくむ斎藤肇の「思い」三部作は、まさに名探偵の超越性を自覚的に物語化したシリーズとなっていた。作中の事件が地味なので、それが味わいとなりつつも、自覚的に古典を再生してとりこむ新本格との間に断絶が生まれていることが残念。

*4:http://mukankei961.blog105.fc2.com/blog-category-65.htmlの「やる夫はモグラに憧れる」シリーズのように、トリックや論理の無茶さを反転して、動機の逸脱性を際立たせるようなテクニックとして読むならば、アリだと思うが。

*5:魔王や魔物が強者としてふるまっているので、契約の描写については『コードギアス』を推す。序盤についてだけいうなら、後に話がふくれあがると知らない段階で小ネタとして読めば、そう違和感はなかったと思うのだが。私の場合は出会いが悪かったのかもしれない。

*6:たとえば読んだばかりの『原爆文学という問題領域』とも重なってくる話。

*7:TVアニメ『機動戦士ガンダム』に対し、作品関係者をふくむSFに造詣ある作家が、後づけしてふくらませたSF設定の一つ。巨大ロボットアニメにSF的なリアリティを付与するため、様々な設定が補完された。

*8:機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』のこと。ロボットに乗らない軍国少年が主人公という、ロボットアニメのシリーズとしては変則的な外伝。

*9:念のため、序盤からベタに受容していた2ちゃんねる界隈がベタに間違っているという話ではない。むしろ、読者がネタの文脈で解しており、ツッコミをはさみこむこともできた2ちゃんねる版こそ、政治的な観点からも読みやすいと感じている。

*10:よくあるディストピア作品とは、結論のつけかたが大きく違う。途中が中だるみしていたこともあって、混沌とした結末に対して主人公が率直な回答を出した流れには、素直に感心した。