インターネット上で発表していた文章をまとめなおしたものらしい。近年の動き、たとえばTVドラマ『はだしのゲン』*1に対してニコニコ動画で流れたコメントや、久間防衛相の発言も言及されている。
内容としては、戦争に限らず、歴史に限らず、虚構に限らず、現実を表現に落とし込む時に留意すべきことが多々指摘されている。虚構の戦争を語る場合でも、参照しておきたい意見が少なくない。
簡単にいえば、戦争の被害や加害を語る主体をどこにおくかという問題だ。
被害者としてのみ原爆を見つめるべきかという問いかけを反転すれば、クリストファー・バーナード『南京虐殺は「おこった」のか 高校歴史教科書への言語学的批判』*2で指摘されているように、南京事件を自然災害のように記述する日本教科書の問題ともなる。
しかし国家の主体を前面に出した韓国教科書のような姿が正しいかといえば、そうとも思えない。
あえて主体を記述せず、石碑の前に立つ一人一人に「あやまち」に対する主体性を問う原爆慰霊碑であれば、この問題に切り込むことはできるだろうか。しかし著者は写真家鈴城雅文氏による「美しすぎる決意」という言葉を引いて疑問符をつける*3。
前後するが、被爆体験を反転させ加害に向きあおうとした栗原さだ子の詩『ヒロシマというとき』すら、語られざる主体があることを指摘する*4。その語られざる原爆投下の主体は共通認識の前提であって隠されているわけではないと考えていたが、無自覚にせよ特定の「認識」を詩の前提として導入している*5と指摘されれば一理はあると思う。著者とは異なる解釈もできると思うものの、簡単に反駁できる問題ではなさそうだ。
とにかく一筋縄ではいかない論点が多々あるので、本格的な感想は読み終わってからにするつもり。
*1:私の感想はこちら。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070813/1187043297
*2:以前にApeman氏がくわしく紹介していた。http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C673208941/E20060723175210/index.html
*3:229〜230頁。
*4:172頁以降。
*5:175頁。