法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

隠し撮りを批判してもドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』の評価は下がらないことと、イルカ肉の需要について

前回のおそらく『ザ・コーヴ』にドキュメンタリー映画としての問題はない - 法華狼の日記でも簡単に説明したが、いくつか補足しよう。


まず大前提として『ザ・コーヴ』は隠し撮りしたことを秘密にしているどころか、むしろ映画の核として前面に出していることは注意するべきだ。
これが仮に全て許可を取ったかのように称していたならば、隠し撮りという指摘は打撃を与えられるかもしれない。しかし、映画は隠し撮りしていたことを明かしており、その撮影にまつわるサスペンスが娯楽として評価すらされている。そして隠し撮りしていることが明らかな作品へドキュメンタリー賞が贈られた事実が示すように、ドキュメンタリーを知る相当数の人々が、『ザ・コーヴ』が選んだ撮影手法はドキュメンタリーの枠を超えていないと判断しているのだ。
つまり隠し撮りしたことを指摘するだけでは、現状より映画の評価を下げることには繋がらない。


次に、ドキュメンタリー一般における隠し撮りについて。
前回は森達也監督の発言を引いて、一般人の顔へボカシをかけた映像は、近年の日本ぐらいでしか見られないと指摘した。
もちろん実際には、さらに複雑な判断が行われているらしい。知る権利のため報じる価値がある表現でなければ、きちんと一人ずつ契約を結んでいくという。ニューヨーク在住のジャーナリスト北丸雄二氏が、『ザ・コーヴ』のアカデミー賞受賞にからんで、北米における一般人を撮影する手順を説明している。
隔数日刊─Daily Bullshit: 敢てイルカ殺しの汚名を着て

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。

見ての通り、全体的には森監督の主張を裏付ける内容となっている。わざわざ「日本の制作サイド」と書いているくらいなのだから、あらゆる対象にボカシをかける日本が特異ということなのだろう。


さて映画の具体的な妥当性についてだが、何度も述べているように未見なので、私個人の判断は難しい。報道記事によっては、問題とされている隠し撮り内容も異なっている。ただ、シホヨス監督が語る隠し撮りの意義について、やや見当外れと思える批判があるので注意しておきたい。
よく引用されている『サイゾー』のインタビュー記事で、隠し撮りに言及した場面を見てみよう。正直な感想をいえば『サイゾー』側の踏み込みが甘いし、見解にも疑問がある。
『ザ・コーヴ』狂想曲 海外メディア・関係者・監督を直撃!(後編)|日刊サイゾー

――撮影のために立ち入り禁止区域に侵入し、警察との対話を隠し撮りして公開している。日本国の法律や条例に対する遵法精神はないのか。

監督 もし、アウシュビッツで残虐な行為が繰り返されているところへ私がカメラを持ち込んだら、はたして非難されるだろうか。

――アウシュビッツのことではなく太地町のことで聞いている。

監督 私は同じ程度の人類に対する犯罪行為であると考えている。このことは世界中の多くの人が知らなければならない。

まず不思議なのが、隠し撮りの対象として警察が持ち出されていること。他の報道記事は、漁師や処理場の隠し撮りを報じていることが多い*1。比べてみると、警察の隠し撮りを「日本国の法律や条例に対する遵法精神はないのか」と問う『サイゾー』は奇妙だ。かなり強い公権力に属する警察は、ドキュメンタリーにおいて必ず撮影許可を取るべき対象だろうか。もし警察官個人の私的な日常を隠し撮りしたならば別だと思うが、そういう報道は見当たらない。
また、「立ち入り禁止」については後述する疑問もあり、今のところ刑事告訴がされているわけでもなく、即座に遵法精神がないと批判できる話ではないと思う。
ちなみに、ここに限らず『サイゾー』の監督インタビューは単純な一問一答で切り取られている上、ふくらませられそうな話題を止めてしまっている。

監督 私が食べている魚はサーディン(マイワシ類に属する小魚の総称)などの非常に小さく短命な魚。食物連鎖では下位にいる魚だ。長く生きる魚には食物連鎖の中で水銀が貯まる。

――水銀の問題ではなくて動物や魚を食べる必要性と食文化について聞いている。

――脳の大きさが知能の高さに比例すると科学的にいえるのか?

監督 イルカの脳は大きいだけでなく非常に複雑だ。センサー能力もレーダー能力もある。自己認識もできるし遊び方を観察しても非常に高度だ。「イルカの知能がなぜ高いのか」と聞かれない日が来ることを私は望みたい。

水銀の話に広がりそうな場合にさえぎってしまい*2、脳の大きさ以外で知能の高さを主張された途端に反論をやめてしまっている。
サイゾー』と比べると、東京国際映画祭で『ザ・コーヴ』が上映された時の監督インタビューは情報量が多い。警察との対話を隠し撮りしていることへの言及はないが、立ち入り禁止に関わる問いに対しても「アウシュビッツ」の比喩がすでに登場している上に、より多くの主張がなされている。
http://www.stereosound.co.jp/hivi/detail/feature_680.html

――太地町は、“上映するなら名誉毀損で訴える”という構えだが?

「太地の漁が行なわれているのは、一般の人が自由に出入りできるはずの国立公園。そこを立入禁止にするのはおかしい。町はその理由を“落石の危険があるから”としているが、私たちが撮影したときに落石はなかった。これが逆にアウシュビッツに侵入して撮影したものだったら、違法だといって糾弾されるのだろうか?」

ここでは、少なくとも監督が「アウシュビッツ」を単なる批判すべき対象として持ち出したわけではないとわかる。立入禁止する側に相応の根拠があるのか、むしろ立入禁止を主張する側に問題があるのではないか、という疑問も組み込んだ表現として「アウシュビッツ」が持ち出されたと見るべきだろう。
そもそも立ち入り禁止の理由が「落石の危険があるから」では、「隠し撮り」に対して抱く心象も随分と違う。これでは、危険な場所へ入ったという問題であって、撮影された映像自体に問題はないという建前になってしまわないだろうか。
それでいて、入り江は漁の時期だけ立ち入り禁止になるという報道もある。
http://wiredvision.jp/news/200908/2009082121.html*3

この入り江は法律的には国立公園[吉野熊野国立公園]だが、漁の時期には一般の日本人さえ立ち入ることができない。

この建前と実態の乖離は、逆に隠し撮りの正当性を与えてしまっているとすらいえるかもしれない。入り江の撮影は一般にいう隠し撮りではないと主張することすら可能なのだし、仮に立ち入り禁止区域に入ったために罰を受けても*4隠し撮りとは関係がないと主張できる。隠し撮りと関係がないのであれば、肖像権の侵害を訴えるには別の方向で攻めなくてはならない。


ついでにイルカ肉の需要に関する報道を、いくつか記録しておく。もしかしたら『ザ・コーヴ』への反発こそがイルカ漁への救世主になるかもしれないと思えるほどの、かなり切迫した実態があるようだ。
http://www.asahi.com/national/update/0308/OSK201003080097_01.html

 同半島の富戸(ふと)(静岡県伊東市)で約30年間イルカ漁の経験がある石井泉さん(61)は今は漁に反対の立場。「イルカを殺して肉を生計の一部とする需要が今あるのか。そういう時代は過ぎ去った。受賞はこれ以上イルカを捕るなというメッセージだ」と語る。

記事タイトルでも「作品には事実誤認がある」という太地町長の発言を伝えているほどの、基本的にイルカ漁師へ寄った記事なのだが、具体的な需要にふれているのはこの発言くらいだ*5
さらに最近の日経新聞記事では、よりくわしく全国的にイルカ肉の需要が減っていることを報じている。
NIKKEI STYLE|ライフスタイルに知的な刺激を―日経の情報サイト*6

 水産庁は全国のイルカなど小型鯨類の捕獲枠を8道県に設定している。2007年の捕獲枠は計約2万頭だったが、実際に捕獲されたのは約1万3千頭。20年前の約3割に減少した。捕獲枠のある青森、宮城、千葉各県の各担当者は「漁師の廃業が止まらず、捕獲枠はあるが10年ほど前からイルカ漁はしていない」と異口同音に話す。

 映画では太地町でイルカが乱獲されているかのように描かれたが、国内で最もイルカ漁が盛んな岩手県の漁業関係者は「イルカ肉の需要が減り、市場価格は大幅に下落した」と明かす。ピークだった約10年前は卸売価格で1キロ約400円だったが、現在は百数十円程度で漁は衰退の一方という。

 イルカ漁の歴史は古く、明治時代以前は全国各地で行われてきた。イルカ漁に詳しい静岡産業大の中村羊一郎教授は「食材としての社会的な必然性は失われている」と見ている。ただ、「地域で受け継がれてきた食文化を一方的に否定することが正しいのか、国内外で冷静に議論する必要がある」と話している。

基本的には『ザ・コーヴ』が描いた印象とは違ってイルカ漁は規模が小さいという反論なのだが、結果としてイルカ漁を存続させることに疑問を投げかける記事にもなっている。文化とは商業的な利益を超えたところにもあると思うが、行われるべき「冷静な議論」には否定への反論だけではなく、イルカ漁の形態や食文化の保存方法もふくまれるべきではないだろうか。

*1:http://www.asahi.com/national/update/0308/OSK201003080097.htmlの朝日記事では「地元」の怒りとして「処理場を盗撮され、許可してないのに顔を撮影された」という発言を伝えている。

*2:話題がそれることを防いだという擁護もできるが、現実には多くのインタビューが様々にそれた話題を編集して成り立っている。せっかく論争の余地がある部分を、ふくらませられなかったことは、取材側の手抜きとしか思えない。

*3:太地漁協側が「エコ・テロリスト集団」を批判する声明を出しているという指摘も興味深い。時系列は逆だが、「マフィア」という表現を批判する立場として、あまり使うべきではない言葉だと思える。

*4:たまたま撮影中に落石がなかっただけで危険性を否定するのは、それはそれで説得力が薄い。

*5:もっとも、朝日新聞記事は反対意見を探して載せる、両論併記の原則を守ることが多い。この発言を掲載したのも原則を意図したものだろう。

*6:匿名の日本人から「かわいいイルカを殺すなんて許せない」など150件以上の抗議が町へ殺到したという情報には暗澹たる気分となる。